ジャスティスへのレクイエム(第一部)
――あの時ほど気持ちがドキドキしたことはなかった。しかも、終わってからのギャップの激しさもあの時が初めてだったな――
ギャップというのは、「賢者モード」のことだろうか?
賢者モードというのは、男性特有のもので、絶頂までに感じていた欲望が果てた瞬間にまるでなかったかのような脱力感に包まれる。それがまるで悟りを開いた仙人のように見えることから、「賢者モード」あるいは「賢者タイム」と言われる。
童貞であるチャールズにそんな理屈が分かるはずもなく、脱力感と同時に罪悪感のようなものが襲っても来た。それは初めての経験だった。
チャールズは自慰行為をしたことはなかった。これは皇室の教育の中で禁じられていることで、童貞の間だけは自慰行為をしてはいけないというものだった。逆に童貞でなくなれば自慰行為を規制する制約はなく、自由にしてもよかった。その理屈を童貞だったチャールズが分かるはずもなく、ただ決まっていることとして、律儀に守り続けてきたのだった。
もちろん、その理由が分かるわけでもない。そして破ってしまったからといって、厳しい罰則が待っているわけではない。だが、それまでに受けてきた帝王学では、決まりを守ることが自分が持って生まれた使命のように教えられてきたので。抗うことなど最初から頭の中にはないのだ。
「帝王学というのは、洗脳することから始まる」
とシュルツは思っていたが、まさしくその通りだ。
だが、チャールズに関しては洗脳などしなくとも彼の性格は実に素直であり、それは今まで脈々と受け継がれてきた王室の遺伝子によって形成されているのではないかと考えると、納得できるシュルツだった。
だが、チャールズのような最初からの国王と違うマーガレットを始めとして側室は、心の中にどこか歪のようなものを抱いていた。彼女たちに対しても同じように皇室に関わることで教育を受けることになるのだが、彼女たちには完全な洗脳が必要になってくる。それがどんな内容のものなのかは一言では言い表すことはできないが、洗脳された人間というのは自由に育った人たちとは明らかな違いがあった。そのことを彼らが表の世界に出ると、相手も自分たちにも気付くものがあるのだろうが、洗脳を受けた人というのはすなわち、皇室の宮殿からは一生出ることができないことを意味していた。
その中で、マーガレットという女性は、洗脳されたとはいえ、どこか俗世間のようなところがあった。いわゆる
――「人間臭い」ところがある――
と言った方がいいのではないか。
チャールズの童貞喪失の相手がマーガレットであったということは、その後のチャールズの人生において大きな転機であったのはないかと思わせるに十分なのだろうが、最初に分からなければ永遠に分かるはずのないこととして、実際にチャールズがそう感じることはなかった。
十五歳のチャールズは、すでに大人だった。大人というのは身体が大人だというわけではなく、包容力を持った人間だという意味である。マーガレットはそれまでに何人かの筆おろしに貢献してきた。もちろん、皇室内の人間に限られるが、そんな連中にはない何かを若干十五歳の少年に感じるなど、思ってもいなかっただろう。
マーガレットは、たとえ相手が皇太子であろうと、相手は童貞。自分がすべての主導権を握って事を済ませることになるだろうと思い込んでいた。だが終わってみれば、すべてにおいて自分に主導権がなかったことは明らかだった。むしろ相手に与えるはずの余韻を自分が与えられたことにビックリした。
――こんな男性は初めてだわ――
まさかその時、自分が皇太子を好きになるだろうなどと思いもしなかったので戸惑っていたが、自分が皇太子を好きになったという事実を思い知ったのは、それから四年が経った、皇太子の婚礼が近づいた時だった。
それまで側室として、他の女性の中の一人として、定期的に皇太子の相手をしてきたが、そこに恋愛感情などありえなかった。
――私が殿方を愛するなどあってはならないことだし、私が殿方に愛されるなど、ありえないことだわ――
と感じていた。
あくまでも自分は皇室直属の側室という立場で、女としての感情を持つことは許されないと思っていた。それだけの教育も受けてきたし、それ以外にはなかった。
元々マーガレットは皇室内で生まれたいわゆる、
「妾の子」
だったのだ。
妾の子だからと言って、捨てられることはなかったが、それなりに皇室内で役に立つ人間として育成されることで、皇室内の人間はそれぞれに役割がしっかりとしていることで俗世間のような自由さはないが、これほどの賢固な集団はないと思われる一団を形成していた。それは他の立憲君主国の軍隊よりも強力なもので、絶対君主制の国を、時代が古臭いということで毛嫌いする時代に入ってきていたが、アクアフリーズ王国というのは、これほどないというほどの結束性を昔から変わらずに保っていたのだ。
ただ、一つ言えることは、他の国と隔絶したようなところがあったので、世間の体制から乗り遅れたのは当然のこと、逆にいえば、昔からの体制から「降り遅れた」とも言える。引き際を間違えると、いずれ混乱を招くことになるというのは、それまでの世界の歴史が証明していたこともあり、それを危惧している人がいないわけでもなかった。それが何を隠そうシュルツ長官であることを、その国の誰もが知らなかった。
シュルツ長官のようにずっと危惧を抱いている人であれば、危険なことはないが、急に世界情勢を思い知らされて、一気に危機感を煽られた人は何をするか分からない。そのことを分かっていたのもシュルツだけで、シュルツしか分かっていないことがアクアフリーズ王国のその後、そしてチャールズ国王の波乱万丈の人生を大きく左右することになる。
鎖国とまではいかないが、あまり他の世間との間に結界を作ってしまうと、よくないことの前兆へと突入する契機が生まれることをさすがのシュルツにも分からなかった。
どこに不幸の種が撒かれているかということを知るのは、それこそ神のみではないだろうか。チャールズもシュルツも、そしてマーガレットもマリアも、王国の未来とは、今までの伝統を継承していくことだと感じていたのだが、それが間違いであるということに最初に気付くのは誰なのだろうか?
寝室に急に飛び込んできたシュルツ長官は、慌ててはいたが、いつも冷静な雰囲気を崩しているわけではなかった。それをよく分かっているだけに、いさめるようにしているチャールズだったが、それはあくまでもまわりの人に対してのポーズでしかなかった。
チャールズ国王は時計を見ると、時間的には起きていても別に問題のない時間だった。午前九時を回っていたし、王宮はいつものような毎日が始まっていた。
「本当にどうしたんだ?」
というチャールズに、恐縮しながらシュルツは答えた。
「隣国のグレートバリア帝国ですが、先ほど速報が入りまして、どうやらクーデターが起こったようです」
チャールズの表情はこわばった。
隣国のグレートバリア帝国はアクアフリーズ王国と親密な関係にあり、クーデターなどという話を聞くと、完全に他人事ではないからだ。
「それでどうしたんだ?」
作品名:ジャスティスへのレクイエム(第一部) 作家名:森本晃次