ジャスティスへのレクイエム(第一部)
確かに波乱万丈だと言える人生だった。それは下々の連中には分からないことを自分が経験しているという意味での考えだが、実際に下々の人の人生を調べてみると自分とは比べものにならないほど、人との間でいろいろな人生があった。
つまりは、シュルツには人との関わりがほとんどなかったのだ。
国家首脳の人とはそれなりに関わりはあったし、チャールズとは同じように育ってきたような感覚だった。だが、下々の連中との確執もなければ、感情を通わせたこともない。それを思うと、両極端な意見は、そのどちらも間違っているようであり、正解だと言えるのではないかと思っている。
シュルツにとってジョイコット国は、
「まるで自分のようだ」
と思えるところがあった。
頂点と底辺という意味での違いはあるが、どちらも庶民とは一線を画して存在してきた二人である。
そういう意味で、シュルツほどジョイコット国の委任統治にふさわしい男はいないと言えるのではないだろうか。
ただ、それはジョイコット国の立場から考えてのことで、シュルツにとって果たして利益になることであろうか?
「百害あって一利なし」
というのであれば、さすがにシュルツも拒否権を発したであろう。
いくら自分たちの国が新興国であり、国際社会に認めてもらうことが急務だとはいえ、それに似合う条件には程遠いジョイコット国の内情は、いかんともしがたいものではないだろうか。
「だけど、利用することはできる」
植民地時代とは違うのだから、利用という考えを委任統治に持ち込んではいけないのだろうが、それくらいのハンデがなければ、ジョイコット国に関わる理由がなくなってしまう。少なくともチャールズに納得させる必要があるので、ここでの利用という言葉は、その欺瞞だと言ってもいいだろう。
チャーリア国とアレキサンダー国との間で戦端が開かれたのは、チャールズ国建国から二年目のことだった。この頃の戦争は、今までのような新鋭の兵器による大量殺戮の時代ではなくなっていた。時代は百年以上前にさかのぼったかのように、航空機は偵察用であり、戦車も装甲車程度の役割になっていた。
これは、核戦争の恐怖を回避させるもので、今から五十年ほど前に起こった核戦争の危機に直面した事態が、今頃になって教訓となって現れたのだ。
核戦争は人類滅亡を意味している。片方が一発発射すれば、その報復が行われ、次第に収拾がつかなくなるのは必至で、最後にはこの地球上から生命が存在することを許さないほどに放射能汚染が行われ、最後に何が残るのか、想像しただけでもおぞましいものだった。
つまり核戦争は、
「開けてはいけないパンドラの匣」
なのだ。
そんなことは核兵器を開発された時に分かっていたはずではないか。しかし、核軍拡は行われ、
「持っていれば、それだけで平和が守れる」
と謳われてきた。
しかし、一触即発の核戦争の危機を人類が経験した時、その考えが初めて間違いだったことに気付く。人類とは何とも愚かな動物ではないか。
動物なら本能で気付きそうなものだが、それほどに人間には自分たちが動物だという意識がないのだろう。
もちろん、核兵器を開発した科学者には、核がパンドラの匣だということは重々分かっていたことだろう。しかし、それを批判できるだけの状態ではない。自分たちは国家から強制されて研究を続けているだけであって、彼らの言葉は一律に、
「これで平和になるんだ」
というものだった。
その言葉には、説得力があった。少なくとも一般市民や政治家にはそう思うだけの根拠もあったことだろう。だが、その根拠とは、自分たちの正当性が根底にあることから立ち上がった根拠であり、自分勝手な根拠でしかないことを誰も気付かない。
ただ、その根拠は人に押し付けられたものでもなく、人を押し付けるものでもない。誰もが信じて疑わない発想こそ、説得力となり、誰も反対意見のないことが、真実として君臨させていたのだろう。
――本当に誰も疑いを抱かなかったのだろうか?
科学者は考えていた。
その中での科学者の一致した考えをして、
「開発を命じた国家元首には、この根拠であったり信憑性を一番疑っていたのかも知れない」
というものだった。
なぜなら、最初に考えた人間は、最初に考えたその時、誰からも何も言われるはずもないからだ。なぜなら自分が一番最初であり、他人が知るところではないからだった。
国家元首は、
「戦争を終わらせるためのカンフル剤になれば」
と期待していた。
このまま泥沼の戦争を継続していては、自軍の兵士が無駄に死んでいくことになると考えたからで、しかも相手は、死をも恐れぬゲリラ戦を繰り返している連中なので、どこにどのように潜んでいるか分からない。その場に潜んでいるだけで恐怖が最高潮になってしまい、気も狂わんばかりの状況に追い込まれた兵士は、その進軍の中で、人道を逸した行動に出ることも少なくない。
「明日には死んでいるかも知れない」
という恐怖が、モラルや道徳などというものを欠落させる。
進軍する中で村と見れば、略奪、強姦、強盗、殺戮と、ありとあらゆる悪行を行ってもなんとも思わなくなってしまっていた。これが人間を最大のハイの状態に持っていくということであり、そもそも軍隊というのが何のために存在しているのかということを分からなくさせるほどであった。
そんな悪行を政府も黙認している。
下手に規制してしまうと、軍の士気は完全に下がってしまい、そもそもの軍としての機能は果たせなくなってしまう。
「軍隊は、国を守るためにあるんだ」
とは、国家首脳の考えであろうが、そこには国と国民を結びつけるという考えが本当にあるのかどうか疑問だった。
戦争というのは、平時には考えられない精神状態を生み出し、そもそもの戦争に突入した大義すら忘れ去られてしまうのが、戦争というものだろう。そう思うと、
「一度戦争を始めてしまうと、終わらせるのが困難だというのも理解できる」
というものだった。
戦争は始めるよりも終わらせる方が難しいというのは、政府首脳にも分かっている。
完全に相手よりも自軍の方が強く、少々の時間さえあれば、相手を完膚なきまでやっつけることができるのであれば、終わらせることを考える必要もないだろう。
だが、それでも辞め時というものがあるというものだ。
戦争を行くところまで行ってしまうと、そこに待っているのは廃墟と一つの国家の滅亡である。そこまでやってしまうと、国際社会からの批判は免れないだろう。完全に弱い者いじめにしか見えないので、いくら大義名分があったとしても、見方によっては侵略にしか見えないからだ。
相手が弱ければ弱いほど、何とか滅亡を逃れようと、いろいろな工作をするだろう。その一つとしては、自分たちが攻め込まれているということを宣伝することであり、彼らが暴挙を行った様子を撮影し、それをプロパガンダ映像として編集して世界にばらまけば、正義がどちらにあるか、国際社会も考えることだろう。
なまじ圧倒的な強さを誇っている国ほど、そのことに気付かないものだ。
作品名:ジャスティスへのレクイエム(第一部) 作家名:森本晃次