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短編集56(過去作品)

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紫煙の行方



                 紫煙の行方


「そろそろ三十分経つかな?」
 玲子は独り言をいうと、腕に嵌めた時計を眺めた。
 何度、同じことを感じたことだろう。しかも同じ場所で、同じ時間帯にである。ざわついた駅のコンコース。電車が着くと、自動改札を通り抜ける人の群れが、この時間帯になると、ひっきりなしであった。
 駅のコンコース、小さい頃から見ているが光景自体に変わりはない。しかし、いつの間にか、狭く感じられるようになっていた。
 それに気付いたのは最近になってからだ。学生時代までは、高校生がやけに目立って見えた。スーツ姿のサラリーマンにはあまり意識が行かない。足早に改札を抜けると、決まって時計を見る人がいた。会社への時間を計るのか、それとも、改札を抜ける時間を普段と比較しているのか、どちらにしても、くせになっているに違いない。
 高校生は、気ままである。考えたことをすぐに行動に移す。分かりやすいタイプしかいないように見えた。
 無口な高校生が改札口を抜けて、スピードを緩めることなく出口へと向う。それでも、サラリーマンとは明らかに違って見える。どこかに悩みがあるようにも見えるが、ハッキリとした悩みではないのだろう。サラリーマンのように、漠然と歩いているように見えないからだ。
 サラリーマンの歩く姿は、まるで何かに吸い寄せられるようだ。皆同じ顔に見える。髪型もそれほど変わっているわけではないが、年齢は皆違っている。それでも同じ顔に見えてしまうのは、自分と違う世界の人間たちだと思うからであろう。
 男と女でも違う。
 改札口を正面に待っている人は、玲子だけではない。一定間隔を開けて、いつも数人の人が待っている。
 デートの待ち合わせの人もいるだろうし、最近ではあまり見かけなくなってしまったようだが、帰宅する夫を待っている妻もいる。駅のコンコースには、それなりにドラマがあって、人生の縮図が見えるようだった。
――ふふふ、なんか恰好いいこと考えてるわ――
 我ながら愉快な気分になってくる。人を待っていることを苦痛だと考える人が可愛そうに思えてきた。
 高校生の頃、玲子は待ち合わせをしても、いつも待ち合わせの時間とほぼ正確に現れていた。早めに来たとしても。待ち合わせの場所に出向くことなく、他で時間を潰していたくらいである。
 人と二人だけでの待ち合わせというのはほとんどなく、数人のグループでの待ち合わせばかりだったこともあって、全員が集まるまでに、待ち合わせの時間から十分以上後のことが多かった。
――早く行ってもしょうがないわね――
 という思いと、人をボーっと待っている時に、人に見られることがどこか恥ずかしいという思いがあったのも事実である。
 それでも時間に遅れたくないのは、言い訳がましいところがあるからだった。何か自分に落ち度があると、極端に焦ってしまって言い訳がましくなる。それは小さい頃からなのだが、親と話している時に身についたことだった。
 しなければいけないことを忘れてしまった時や、約束を忘れてしまっていた時、どんなことを言っても言い訳になると思って言わないでいると、
「何か言いなさい。理由があるんでしょう?」
 と母親に詰め寄られる。
「おかあさんは、理由もなく黙っていられるのが、一番嫌なの」
 それは母親の性格には違いないが、そこまで言われれば何とかして言い訳を考えようとするのも、子供だからであろうか。
――敢えて逆らいたくない――
 素直な気持ちの表れか、抵抗することで余計に相手の神経を逆撫でしてしまうことを嫌っているのか定かではない。だが、意外と子供であっても、冷静にものを考えていることも多いようで、理屈で考えることが無意識になってしまっているのは、そんな母親の血を受けついているのかも知れない。
 必死で理由を考える。何とかして屁理屈をいう。それで、母親が納得してくれるのなら……。
 だが、それが自分の家庭でだけ通用するものであることを知ったのは、その後だった。下手な言い訳をすると、皆不審な目で玲子を見る。
――どうして、そんな目で私を――
 と思わないでもなかったが、完全に自分だけが孤立してしまっていることに気付かされてしまう。だが、どうしようもないことだった。
 小学生の頃、苛められたり、しかとされたりしたのは、そのせいだったのだろう。何かを言うたびに、まわりの冷ややかな視線が飛んでくる。耐えられない時期があったが、そのうちに慣れてくる自分も怖かった。
 慣れてくると、何も感じなくなる。何も感じないと、まわりの空気を自分が読めていないことに気がついてくる。それまで不思議だったまわりの態度が理解できるようになり、悪いのは自分だという意識が芽生えてくる。
 だが、どうしようもないのだ。小さい頃に徐々に、しかも無意識に形成された性格は、なかなか変えられない。自分のことが分かってくると、それまでの狭い世界に埋もれていた自分が恥ずかしくなり、どこまで世界が広がるのか見たくなってくる。
 性格は絶対に変えられないものだという感覚はない。どこかで修正ができるはずである。それを模索しているのが、成長期の自分である。
 小学生に頃にいなかった友達が、中学に入ってできた。それも自分から友達になろうとしたのではなく、相手から話し掛けてくれたのだ。
 それが嬉しかった。自分からアプローチするよりも、相手が意識してくれる方が、
――分かってもらえるはずだ――
 という意識が強い。まさか友達になりたいというのに、相手の性格を考えないようにするなどということは考えられないからだ。
 玲子の考えは、まず自分中心で、そこから浮かび上がってくる発想を、相手に当て嵌める。少し強引かも知れないが、それで違和感なく考えてきたのだった。
 玲子は時々自分中心のひねくれた考えを示すことがあった。これを自分では個性だと思っているが、他の人には到底受け入れられないと思うことである。
 意見が合わずに人からやり込められると、どうしても言葉が出てこないのは、何をどう説明しても、下手な言い訳にしかならないからだ。
 小学生時代は、それでも言い訳をしていた。その反動が中学に入ってから現れたのだ。
 小学生時代の自分も嫌いだったが、中学に入ってからの自分も好きではない。そういえば、今までの自分が本当に好きだった頃があるのだろうか? きっとなかったのではないかと思えてならない。
 中学時代には、数人のグループの中の一人に甘んじていたが、高校に入ると、グループの中にいることに満足できなかった。
 中学時代も満足していたわけではない。苛められていた小学生時代から、何かを変えようと考えていた時に、友達になってくれる人がいたことで、グループの輪の中に入ることに違和感がなかったのだ。
 事実、楽しかった。いろいろな意見を聞けたからである。だが、中にいると、どうしても見えてくるのは輪の中心にいる人の意見が竿後は生かされて、下々の人はそれを承服するしかなかった。
作品名:短編集56(過去作品) 作家名:森本晃次