短編集56(過去作品)
小さな丘といっても、結構な高台になっている、その証拠にホテルの部屋からの絶景を今でも覚えているくらいだからである。
それでも坂道は急勾配ではない。蛇行した道になっている。さすがに道を全部歩くとかなりの距離になるので、
「すみません。ここでいいです」
と言って、勾配を少し登ったところでタクシーを降りた。
運転手は不思議そうな顔をしていたが、却って今の清水には新鮮に感じられ、表に出ると、思ったよりも風があることに気持ちよさを感じていた。
街灯が適当についているのもありがたい。空には月も出ていて、街灯がなくても暗くはないが、足元を見て、いくつもの影が伸びているのは幻想的だった。
酒に酔っていると、なぜかハッキリと見えてくる。あまり視力のいい方ではない清水は、車の運転の時だけメガネを掛けているので、普段はあまり見えない方である。そんな彼でも酒に酔うと視力が戻ったような錯覚に陥るのは、アルコールが視覚神経に興奮を与えるからではないかと思えてくる。
興奮は視覚神経だけではない。身体に当たる風の気持ちよさを感じているので、全身の神経が興奮しているのではないかと思えてくる。
胸の鼓動をハッキリと感じる。普段歩かないのに歩きたくなるのは、さらなる胸の鼓動を感じたいからなのかも知れない。
蛇行している道の両側には歩道が設けられていて、それなりに広い道である。だが、車の量がそれほどないということは、坂を登りきったところに目的を持って走らせるほど、何もないということだろう。
ホテルの向こう側に道が続いているわけではないので、ある意味、ホテル専用の道と言っても過言ではない。
この街にはあまりたくさんのホテルがあるわけではないので、ここがこの街でのメインのホテルということになる。それだけに道も綺麗に整備されているようだ。考えてみれば、ここにホテルがなければ、この道は何ら役に立たない道の一つだったに違いない。
明かりが明るいのも、綺麗に整備されているのも、ホテルができてから、それを考えると、まだまだ綺麗なのは当たり前かも知れない。
月明かりに照らされた街路樹が綺麗である。綺麗な街路樹が風で揺れている時に枝と葉がこすれる音が耳に心地よい。
睡魔に襲われそうなのは、静かな中にこすれる音だけが聞こえてくるからだ。
歩きながら酔いが覚めてくるのが分かる。少し頭痛がしているのは、酔いが覚めて来る証拠である。ゆっくり歩き始めた。坂道を登るのは苦手ではない。どちらかというと、下ってくる方が疲れを感じる。
下りだと同じ距離でも遠くに感じるのに、上りだと同じ距離でも短く感じる。遠くを見ているその先に空が見えているのと、下界の街が見えているのとの違いであることを、この坂を歩いてみて気がついた。
山の中腹から歩き始めることもあまりないので、後ろを振り返りながら歩いている。急ぐこともないし、酔い覚ましが目的なのだから、それはそれでいいのだ。
下界の景色は確かに広くてネオンサインも綺麗である。しかし、空が見えているはずのところも、暗くて見えないが、どこか深みがある。空ばかり見ていると、きっとあっという間についてしまいそうなので、少しもったいない気がした。
それで下を見ながら上を見上げる。下の景色の綺麗さをイメージすると、上を見上げるとギャップがある。そのために街灯に照らされた街路樹に目が行くのだ。
月明かりだけでもいいのだが、街灯を嬉しく思うのは、そういった感情が働いているからだ。
足が少し熱くなっていた。感覚が少し麻痺しているようだったが、心地よい気だるさには違いなかった。
気だるさの中で足元を見ると影が放射状に広がっていた。広がった影は歩くたびにグルグルと回っている。回っているのを見つめていると、思ったよりも歩いている感覚なのに、実際はそれほど歩いていなかった。
歩き始めると、霧が掛かってきたように感じた。少し涼しさを感じるのは、風のせいだけではない。
肌にまとわりつくような湿気、嫌な予感がする。
今までカラフルな明るさだったはずのものが、霧のせいで、白い明るさに変わってくる。すると、明るさが却って映えて見えてくるのだった。
顔にポツポツと当たるものがある。最初からそれが何か分かったのは、霧のせいだ。霧が出ていることが嫌な予感を誘発し、当たってしまったことで、寒さの理由も分かってきた。
「これは参った。雨が降ってきたぞ」
声に出してみたが、まわりで聞いている人もいない。まだまだ頂上までは距離がある。足がさらに重くなってくる。雨によって濡れたシャツが身体にまとわりついてくるからである。
よく考えてみると、カバンの中に折りたたみの傘があった。以前から備えあれば憂いなしで、傘は持ち歩くくせがあったのが幸いした。さっそくカバンから出して傘を差すと、肌に感じていたよりも雨粒が大きいことに気がついた。傘に当たる雨音がそれを証明している。
傘の合間から街灯を見ると、雨粒の大きさが見て取れる。傘を持っていなければ大変なことになっていたことだろう。
傘を差しながら歩いていると、車の数が増えてきたのか、やたらと眩しく感じる。濡れたアスファルトに車のライトが当たって眩しいのだ。
雨の日というのは、雨独特の匂いがある。雨が降り出す前にいつも感じるのだが、その日は感じることはなかった。降り始めてから改めて雨の匂いを感じていて、それはアスファルトの表面に溜まった埃や塵が、湿気を帯びたアスファルトから蒸発する空気に乗って匂うのだろう。だが、それも湿気を含んでいないと匂うこともないようで、その日は、いきなり降ってきた雨に翻弄されていた。
だが、雨は長くは続かなかった。夕立のように、気がつけば上がっていたのだが、そのわりに雨が歩道に残っていて、歩くと水を跳ね上げてしまいそうだ。
霧もいつの間にか晴れてきているようで、ネオンサインがハッキリと見えている。歩き始めて十分経ったくらいだろうか、時計を見ると、確かに十分経っていた。
――本当に十分も歩いたのだろうか――
と思ったが、それにしては汗を一杯掻いている。
今度はまた車の通りがなくなっていた。通り雨と同じで、同じ道を歩いているのに、さっきはまったく違うところを歩いていたような錯覚に陥ってしまっていた。
もうホテルは目の前だった。疲れ果てたようにロビーでチェックインを済ませると、部屋へと急いだ。
記憶の中だけで、身体の感覚が麻痺しているように思えてならない。
翌日になると、熟睡していたせいか、目覚めはすこぶるいい。
枕もとの時計を見ると午前七時、まるで計ったように目が覚めた。朝食バイキングへ向かう前にシャワーを浴びにシャワールームへ入ると、使った後がある。
――あんな状態で、しっかりとシャワーを浴びたんだ――
確かに目覚めのよさは、さっぱりとした身体が証明してくれている。それだけ、身体の汗もすっかり落としているのだろう。
あれだけの汗を落とすとすればシャワー以外には考えられない。やはり、部屋に帰ってきてシャワーを使ったのは間違いないようだ。
――それ以外に何をしたのだろう――
作品名:短編集56(過去作品) 作家名:森本晃次