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短編集56(過去作品)

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 だからこそ、清水は結婚を意識し始めてからの行動は機敏だった。そんなところが春江にして、彼の頼もしいところなのだろうが、清水としてはもっと単純に、
――どうせ決めないといけないことなら、さっさと決めてしまった方が精神的にも楽だ――
 という強かな考えがあったことは否めない。
 だが、清水にとってその考えは長所の一つだった。いくら根底にある考えがなんであれ、やらなければならないことを苦痛を感じずにできるのであれば、それはそれで長所に繋がる。そこまで春江が見切っていたかどうか疑問であるが、少しは分かっていたかも知れない。それがいずれ災いしたとも言えることは、
――神のみぞ知る――
 と言ったところだったに違いない。
 強かな考えは少し落ち着いて考えれば冷たい性格に見えるのではないだろうか。結婚して熱い気持ちの時期に気がつくはずもなく、しかも、その時々の状況に気持ちが染まってしまいやすい清水の性格が前面に出てしまっては、分かりにくいところであろう。
 一番分かっていないのは清水自身だったかも知れない。人から見る自分と、自分の心の目とは大きな違いがある。自分で見つめる目には「贔屓目」というのがあるからだ。どうしても自分のこととなると、甘く見えてしまったり、思い込みがあったりするものだ。それを清水がどこまで分かっていたかということだが、まず新婚生活のような夢の続きを見ていれば分かることはずもないことだった。
 清水と春江の結婚生活は不思議なものだった。
――いつまでも新婚夫婦のようだ――
 と思っていて、夫婦生活がまるでままごとに見えていた。家に帰れば妻が食事の用意から風呂の準備まで、痒いところに手が届くとはこのことだ。今までの一人暮らしが何だったのかと思えるほどで、
「結婚は人生の墓場だ」
 と言っている人の言葉が他人事にしか感じない。
――浮気なことを考えるから、そんな気持ちになるんだ――
 としか思えず、浮気なんかするはずないと思っている人にとって、結婚生活はバラ色にしか感じない。
――家に帰れば、妻がいて当然。いない部屋なんて信じられるわけもない――
 すべてが自然で、どこに違和感が入る込む隙間があるというものだろうか。
 会話もそこそこにある。清水の言うくだらない冗談に相槌を打つ春江という構図が出来上がっている。結婚生活とは、地道な努力だとも聞いたが、こんな些細な努力とも言えないことでうまくいくのであれば、何も苦労はいらないだろう。
 結婚生活での清水のモットーは、妻を立てるだけだった。肝心なことを決める時だけ、自分が表に出ればよく、財布の紐や近所づきあいなどは、妻が表に出ればいいものだと思っていた。
 もちろん、相手のプレッシャーがどれほどのものかを考えずに任せきりにしてしまうのは危険だと思っていた。だが、春江は黙ってこなしている。そんな妻を見て、
――頼もしい妻だ――
 と感じることで、その時はいまさらながら結婚したことを自分の誇りにさえしていたものだった。
 だが、頼もしさが依存に繋がってしまうと、会話がないことに不信感を抱かなくなってしまう。
――妻が何も言わないのだから、大丈夫だろう――
 と感じてしまう。何かあった時は必ず相談してくれるはずだというのが依存に繋がってしまう。妻の春江にしてもそうだろう。夫が何かを言わないと寂しいこともあるだろうが、何も言わないということは困っているわけではないという気持ちになる。お互いに依存し合っているくせに、会話がないのを遠慮だと思っているのである。
 清水に違和感が少しでもあれば、状況は変わっていただろう。先に会話をしなくなったのは妻からだということは意識していても、自分から話しかけられない雰囲気になっていたのは、夫としての権威よりも依頼心の方が強かったからに違いない。
 そんなことを感じ始めると、二人の関係は急速に冷え切っていった。
「ついこの間まで新婚気分だったのに」
 いや、今でも新婚気分が抜けているとは思えない。
 男というもの、鈍感なくせに、以前のよかった時期のことを忘れられない。自分が忘れられないのだから、相手も忘れられるはずがないという思い込みに走りやすく、冷めた相手から見ると、これほど未練がましく情けないものはないのだろう。
 ひょっとして、まだ捨てたものではなかった気持ちを、男の性が自分から状況好転を妨げているのかも知れない。
 今でも妻とは冷え切った関係だ。話をすることもなければ、一緒に一つ屋根の下にいるという事実がたまらなく嫌になってしまっている。
――一人暮らしだった頃が懐かしい――
 妻がすでに、心ここにあらずと知った時、心の中で呟いた。妻との懐かしかった日々を頭の中で通り越しているのである。
 妻との楽しかった日々よりも一人暮らしの頃の方が記憶に新しい。妻と一緒に歩まない人生を模索し始めている証拠ではなかろうか、清水の中での自尊心が、妻の存在を否定しかかっている。
 これほど怖いことはない。あれほど部屋に帰ると妻がいることが当然だと思っていた時期を遠い過去に追いやっている。自分の数年間を自らで否定しているのだ。
 さすがに離婚までは考えられない。男の方から離婚を言い出すほどの理由が見当たらない。妻にしてもそうだろう。離婚するにしても正当な理由が見つかるはずはない。何しろ、それだけの夫婦生活を営んできた自負が沁みずにはあるからだ。
「一日の中で一番の楽しみは何ですか?」
 と聞かれれば、
「寝る前です」
 と答えるだろう。では、
「一番嫌な時は?」
 と聞かれれば、
「起きる時です」
 と答えるに違いない。まるで禅問答のようである。
 最近になると、仕事でのストレスもさることながら、妻に対するストレスも相当なものだ。
 寝る前の幸せさに比べて、起きる時の辛さはまるで情けなさに通じるものがある。特に夢で以前の楽しかった時のことなどを見た時は、夢から覚める時、完全に自分が現実に引き戻される感覚に陥ってしまう。
 妻との楽しかった時間、時系列で見れるわけもなく、少しずつずれているように感じる。それは今の気持ちのずれを表わしているのか、それとも、自分の中で、復縁は難しいという諦めの心境なのか分からないが、それだけに余計目を覚ました時の現実が一気にのしかかる。
 夢を見ていたとすぐに感じるのである。普通であれば、目が覚めるまでしばらく掛かるのに、夢の余韻を感じる暇もない。それはそれで寂しいが、引き戻される現実への辛さは拭えるものではない。
 最近は、開き直りの精神であった。
――なるようにしかならない――
 なるべく、辛さを顔に出さないようにするには、その方法が一番だった。だが、夢を見てしまうと、その気持ちが萎えてきてしまう。しかも更なるストレスを溜めることにも繋がってくる。
 家庭内別居という言葉があるが、寝る時も別の部屋なので、夢を見ていることを春江は知らない。寝ていて汗を掻くようになったのも最近だった。
「寝汗ってあまりいい傾向じゃないんだって」
 以前、そんな話を聞いたことがあったが、病院へ行く気もしない。少しくらい体調を崩していてもそれは精神性のものだと分かっているからだ。
作品名:短編集56(過去作品) 作家名:森本晃次