忘却の箱
出し惜しみの涙
春とは言え、まだ寒い日だった。
でも講堂の中は暖房もないのに蒸し暑さを感じるほどだった。
在校生が送辞を読み上げる。芝居じみた卒業式。でも、今日はまだ、その練習。
式のために選ばれた歌を合唱する。
思わず涙が溢れてくる。
今日はまだ、ただの練習なのに。
卒業証書の授与。それもまた練習。最後に、校歌の斉唱。
その頃には、私は涙でぼろぼろになる。
やめてよね、こういうの。私、馬鹿だし、すぐに泣いちゃうんだから。
この練習が、まだ二回ほどもある。その度に、きっと私は泣いてしまう。
「なんだお前、また泣いてるのか」
|勇馬《ゆうま》が背中を叩いてくる。
勇馬、私の幼馴染。幼稚園の時からずっと一緒の。今は別々だけど、同じクラスになったことの方が多い。
「わざと泣かせるような式なんて、嫌い」
「それに引っかかって泣くお前も、お前だけどな」
「うるさいわね。あんたは別のクラスでしょ? なんでここにいるのよ」
「お前がまた泣いてるからだよ」
「馬鹿。あっち行け!」
じゃあ、またなと言いながら、勇馬は自分のクラスの群れの中に消えて行った。
ホント、馬鹿なんだから――
私は目尻に残った涙を拭いて、自分の教室に戻った。
翌日、私は盛大に寝坊した。もう遅刻確定だった。
でも、1、2限目はまた卒業式の練習。もう出席するのも面倒だった。どうせまた、泣いてしまうんだから。
刻限で閉ざされる正門も、授業が始まれば解放される。制服の私は余裕でそこを通り抜ける。万一問いただされても三年生は職場見学とでも言えば何も咎められない。
教室に入ると、やはり他には誰もいなかった。律儀なものだと、私は呆れながら机の上に座って外を見る。卒業式本番は今週末。この光景も、あと少ししか見られない。
開け放したままの入口に人の気配を感じて振り向くと、そこには勇馬が立っていた。
「なんだ、お前も遅刻か」
そう言って、教室内に入ってくる。別々とは言え、雄馬は隣のクラス。物音を聞きつけて来たんだろう。
「そういう勇馬も遅刻じゃないの」
「俺か? 俺はただ、ああいうのが面倒なだけだよ」
「うん。確かに面倒よね。なんで同じこと何度もやらされるんだか、意味分かんないよね」
「そうだな。まあ、劇みたいなもんだろうな」
「うん」
「その劇で泣く方も、どうかと思うけどな」
「あんたはいつも、一言余計なのよ」
「もう、終わるんだよな」
「うん」
「別の学校」
「ん?」
「俺たち、別の学校になるのは、初めてになるんだな」
そう、この春から、私たちは別々の大学に行く。それどころか、私はこの町を一人で離れる。
「そうね」
「寂しくないか」
「寂しい、か。まだ、分かんないな。それよりも、この教室に居られるのも少しだけってのが、寂しいかも」
「まあ、そうだな」
「ねえ、前にもこういうこと、あったよね」
「うん? 何がだ?」
「ほら、夏休みの前にさ」
「いつのことだ」
「馬鹿、忘れたの?」
「悪い」
「もう、いいよ」
「まあ、何だ。色々あったよな」
「勇馬ったら、何思い出語りだすのよ」
「そうだな」
そのまま取り留めもない話をしているうちに、チャイムが鳴る。式の練習が終わり、HRのためにクラスメイト達が戻って来る前に、勇馬は教室を去った。
卒業が決まった後の授業など、退屈極まりない。でも、一瞬一瞬が残り少ない高校生活の貴重な思い出に繋がり、感慨ばかりが募ってゆく。そして更に授業に身が入らなくなる。
そうして、卒業式。練習ではなく本番当日。
練習した通りの手順で、式典が進んでゆく。
在校生の送辞、卒業生の答辞、卒業の歌。
あれだけ練習したにも関わらず、生徒は皆きちんと歌おうとしているにも関わらず、感極まった体育教師が一人だけフライングで、しかも思いっ切り音程狂わせて歌い出したものだから、雰囲気が台無しになる。
あの馬鹿教師、ホントに脳筋。内心笑いながら、適当に歌う。
卒業証書の授与。一人ひとり壇上にあがり、証書を受け取る。
そして最後に、校歌斉唱。
でも、私は泣かなかった。いや、泣けなかった。これも、いつものこと。小学校の時も中学の時も。練習で泣き過ぎて、本番では泣けなくなる。だから私は、練習が嫌いなんだ。
教室で卒業アルバムやら何やらをもらい、クラスメイトと別れを告げる。私も適当に馴れあってはみたけど、他のみんなみたいには泣かなかった。どうせみんな、この後集まって卒業パーティーやるんだし。ただの演出にしか思えない。
でも、私はそれには参加しない。今夜の高速バスで、新しい町に行く。
白々しい別れの挨拶を交わして校門を出ると、勇馬に声をかけられた。
「お前、やっぱり泣かなかったな」
「うん」
「お前らしいというか」
「何よ、それ」
「だって、お前は本番ではいつも泣かないから。練習のときはボロ泣きのくせに」
「うるさいわね」
「今夜、発つんだな」
「うん」
「頑張れよ」
「当たり前じゃない」
「そうだな」
勇馬が目を宙に向ける。「えーと、何だ。これ――」
卒業生の胸に留められた造花。女子は赤、男子は白の薔薇の。勇馬は自分の胸の白い薔薇の造花を外し、私に差し出す。
「それ、どういうつもり?」
「まあ、景気づけ、かな」
「ふうん。あんたがそんなことするのって、なんか気持ち悪い」
「う……うっせえ!」
「うん。でも……ありがとう」
「送ってやれないけどさ」
「うん」
「元気にやれよ」
それだけ言って、勇馬は自転車で去って行った。
その夜、私は新しい町に向かうバスに乗った。勇馬がくれた白い薔薇を持って。
それからしばらくの間、メッセージのやりとりは続いたけれど、その冬に帰省したときには、勇馬はいなかった。それより前からやり取りは絶えていた。
後で聞かされたこと。勇馬は季節外れの海で――
ちょうど私の試験前だったこともあって、言いそびれていたのだそうだ。
私の部屋に、彼の写真はない。その代わり、鏡の隅に白い薔薇を留めてある。
だから、いつも見える場所に、勇馬はいる。