忘却の箱
白い手袋
あれは、五月の連休最終日のこと。
朝方の涼しさは失せ、少し汗ばむ陽気の晴れた日。久しぶりに、当時まだ元気だった母と買い物に出かけた。
どうせずっと休みなんだし、わざわざこんな日に町に出なくても。
そう思いながら。
でも、そう。
その日が最後だったから。
明日には、私はここを去る。
明日、昼の国際便で。
だから、母と一緒に、気兼ねなく出かけられる最後の日。
独り身最後の、私の町。
電車はそんなに混雑してなくて、母と並んで座ることが出来た。
車掌が巡回に来る。乗るときに、気づいていた。
あの人だと。
私がまだ中学生の時に、手紙をくれた、あの人。
でも――
気づかぬふり。
ずっと、そうだった。
彼はべつに、私を追いかけまわしていたわけじゃない。
同じ駅、同じ電車。学生だったら、当然顔を合わせてしまう。
ただ、それだけだったはずなのに。
返事を出しそびれていた私が悪かったのかもしれない。
彼は、ただそれが欲しかっただけなのかも知れない。
あの日も、そうだった。
肌寒い、小雨が降ったり止んだりの朝だった。電車がひどく遅れて、乗り換えぎりぎりで走らないといけなった。それに乗れなかったら、確実に遅刻。
当然、彼もそのはずだった。
彼は私よりも先の駅まで行く。
でも、怖かった。
追いかけられていると思った。
ほかにも走っている人はいっぱいいたのに。
私は、なんとか乗り換えることが出来た。
すぐさま振り返り、彼に向かって――
ドアが閉まった。
本当は乗れたはずなのに、彼は乗って来なかった。
そして、そのまま。
学生で同じ駅を使ってたら、当然毎朝顔を合わせる。下手をしたら帰りも。
でも、彼と出会う回数はぐっと減った。
たまに出会っても、知らないふりをして。
向こうも知らないふりをして。
彼は卒業後、この電車の会社に就職したようだった。
まだ追いかけられているのかと思った。でも、彼は私を見つけると、いつも少し驚いたように目を逸らした。私に出会ったことを後悔しているような、そんな表情で。
憂鬱な日々。
この国には、私の幸せなんてないと思ってた。
大学の時、交換留学生として一時外国に行った。その時に出会った人と、なんとなくいい感じになって。
今年の春、卒業後にその人の家にホームステイした。
それで。
プロポーズされた。
そう、その日は私の町で過ごす、最後の日だった。
独身最後の、私の国。
車掌が来る。
降りる時に清算すればいいだけ。
だから、わざわざ切符を買う必要はない。
でも……。
千円札を出す。
「四辻まで、二枚」そう言って。
彼が値段を言う。
乗務員の白い手袋。
少し汚れて、指先が擦り切れそうな。
「千円、お預かりします」
慣れた手つきで切符にハサミを入れ、渡してくる。
それと、おつり。
「ありがとうございます」
普通の職業的な顔と口調。
それから少し表情が変わる。
「お気をつけて」
彼はそう言った。「それと、お元気で」
私は凍り付いてしまった。
まさか、彼がそれを知っているはずがない。
親しい友だち何人かと、先生しか知らないはず。
なのに――
そうなんだ……
分かってしまった。
私も。
彼はもう、前を向き、去ってゆこうとしている。
「あの……」
呼び止める。
勇気を振り絞って。
隣に母がいるのも構わず。
「ありがとうございました」
受け取った切符を握り締めたまま、彼を見上げて。
それだけを。
彼は目だけで応え、車両の前の方へ進んで行った。
これが、私と彼の最後。
最初で最後の会話。
あの高校時代の日、小雨の降るうすら寒い日。
あの日以来、彼は私を避けていた。
出会っても、知らないふりをしてくれていた。
ずっと私を好きでいてくれて、それでも。
祝福してくれた。
私は、彼を好きだったんだろうか。
今でも、時々そう思う。
もう大きくなった子どもたちを見送りながら。