忘却の箱
笑顔
幼稚園のとき、言葉をしゃべれない女の子がいた。
いつも|涎《よだれ》を垂らし、あーあーと言っているだけの子だった。
すぐに癇癪を起こし物を投げつけたりするから、その子はいつも道具棚の上に座らされていた。
そこからいつも、その子はみんなが遊ぶのを見ていた。
私も最初ただの興味本位だったのかも知れないけど、その子におもちゃを渡したりした。やっぱり投げつけられた記憶が確かにある。
でも、どういうわけか、時々その子は下に降りていた。
幼稚園時代の記憶など曖昧なもので、勝手に降りていたような、一緒に遊ぼうとして私か他の誰かが降ろしたのかは分からない。
私は絵を描くのが好きで、友達が他の子たちと遊んでいる時は、一人で絵を描いていた。
海とか山とか、船。子どもが簡単に思いつくようなものだったはずだ。
いつから、どうやってそうなったのかは定かではないけど、絵を描く私の横にはいつもその子がいた。
年長になってから、ということしか覚えていないけど。
その子は、いつの間にか私の横にいた。
私が絵を描くのを、座って黙って見ていた。
たまに目が合うと、笑ってくれた。
これだけは、はっきりと覚えている。
私がモーターボートの絵を描いていて、その時も彼女はじっとそれを見ていた。
そして、私が描くものを指さして、あーと言った。
私は、海、お船、空と言った。
その子は、その絵をすごく気に入っていたのだと思う。
私はその絵をあげた。
すると、その子はそれまで見たどの時よりも嬉しそうにしていた。
私が絵を描いている時、その子は邪魔もせずに、見ていてくれた。
でも、たまに先生に見つかって棚の上に戻されたりした。
何もしないよって、先生に抗議したのは憶えてる。
聞いてもらえずに、無理やり連れて行かれるその子の様子が記憶にある。
みんなその子が嫌いだった。涎でべとついた手で触ってくるし、すぐに物を投げるから。
私は、嫌いじゃなかったよ。
好き、とか言うのじゃなく、友達だと思っていたのは確か。
小学校の入学式の時、その子はいなかった。
私は、その子の名前を思い出せない。
でも、その子の見せた笑顔、あの最高に嬉しそうな顔は、今でも思い出せる。