忘却の箱
駆け出しの夏休み
一学期最後の日。たぶん5年生の夏。終業式と教室での先生の話の後、クラスの子たちは早々に帰って行った。友だちのいない私はゆっくりと帰り支度をし、ほとんど人のいなくなった校舎を後にした。
家に帰っても、することはない。学校は好きじゃない。でも、いじめっ子たちが一人もいない学校なら、少しは好きになれただろうか。
校門のところでぼんやりしていると、声をかけられた。近所に住んでいて、一緒に遊んだこともある一学年下の男の子だった。
「なにしてるの?」
「うん。べつに」
何をしているわけでもなかったので、そう答えた。
「帰りたくないの?」
私は目を逸らせた。
「そうなんだ」
彼は言った。「俺も、あんまり帰りたくない」
「どうして?」
「勉強しろって、うるさいから」
私なんか、通知表見せたって何も言われないのに。でも、勉強ばっかり言われるのも嫌なんだろうな。
何故だか知らないけど、彼は大きなござを抱えていた。それを大儀そうに置いたかと思うと、そのまま地面に拡げた。校門前の邪魔にならないところに。
「何やってるの?」
今度は私が訊いた。
「まあ、座ろうや」
先に彼が座り、その隣を叩いて促した。私はそこに腰を下ろした。かといって、彼とはそうしょっちゅう遊んだこともないし、話すこともない。学年も違うから何を話していいかもわからない。ふたりして座ったまま何もしゃべらないまま時間だけが過ぎた。
「こんなのも、いいよな」
彼が、ぽつりと言う。
「え?」
「こうやって、何にもしないってのが」
「まあ……」
それもそうかも知れないと、私は思う。
「睦《むっ》ちゃんてさ、なんで帰りたくないの?」
「帰っても、することないし」
「俺とは逆か」
「お母さんはいないし、弟は面倒だし」
彼が笑う。
「じゃあ、ここでゆっくりしててもいいわけだ」
「まあね」
校内に、生徒はもういない。だから、こうして意味もなく校門前にござを敷いて座っていても、冷やかされる心配はない。でも、先生たちはまだ残っている。
「お前ら、何やってるんだ」
先生が私たちを見咎めて言う。
「座ってるんです」
彼が当たり前のことを返した。
「なんで?」
「何となく」
「何となく?」
「はい。何となく、こうしていたいなって思ったから」
「そうか」
教師が頷く。「それも、いいかもな。でも、早く帰れよ」
「分かりました」
教師は帰って行った。
「やっぱり、変に見られてるのかな?」
私は訊く。
「だろうね」
「なんだか、|可笑《おか》しい」
私は笑った。
「だな。可笑しいよな」
二人して顔を見合わせる。そして互いに肩を竦めて笑った。
「夏休みだね」
「そうだな。俺は毎日塾だけど」
「塾? 夏休みなのに?」
「夏休みだからだよ」
「よく分からないけど。大変ね」
「もう慣れたけどな」
また、沈黙。
体育座りのまま空を見上げる。終業式が終われば夏休み。だから、この時間は夏休み最初の時間。でも、彼にとってはそうじゃないのかも知れない。いま、この時間だけが夏休みなのかも知れないと思った。
「これ、やるよ」
鞄から造花を出して、彼は差し出した。
「私に?」
「べつに、変な意味じゃないぞ。図工の時間に作らされたやつだ。こんなもの持って帰ったら、親がうるさい。女々しいとか何だとか」
「そうなの」
複雑な思いで、私はそれをもらった。
男の子から何かもらうのは初めてじゃなかったけど、素直に喜んでいいものやら分からない。
「でも、ありがとう」
「礼なんかいらないよ。本当は捨てようと思ってたんだから」
「捨てるなんて、もったいないよ。せっかく作ったのに」
「そんなもの、どうでもいい」
「よくないよ」
彼が、私をまじまじと見る。思いの外、強い口調になってしまっていたようだった。
何となく、気まずい雰囲気になる。
「なあ、女って、やっぱり花とかもらったら嬉しいのかな?」
「そりゃあね。ビー玉とか野球選手のカードより、ずっといいよ」
「そんなの、もらったことあるのか」
「まあね」
「睦ちゃんって、モテるんだな」
「前の学校じゃね。モテたってわけじゃないよ。一人だけ。今は全然ダメだけど」
「そうなんだ」
寂しそうに、彼がうつむく。
「好きな人、いるの?」
「いねえよ、そんなの」
「あ、いるんだ。この、このォ!」
私は肘で突いてやった。
「うっ、うっせえよ」
「真っ赤になってるじゃん」
「なってねえよ!」
「ムキになって」
「もういい!」
彼は立ち上がる。「帰るよ」
「え? もう?」
「いたいなら、いてたらいいよ。ござだけ返しに来てくれたら」
そう言われては、もう帰るしかなかった。
私は何か、彼の気に障るようなことを言ったんだろうか。冷やかしたのがいけなかったのか。
家が近所なので帰り道は一緒だったけど、道々何かを話した記憶はない。途中、駄菓子屋でキャンディーをおごってもらったくらいしか覚えていない。
でも、あの夏の日。確かに夏休みがあった。
あまりにも何でもなさ過ぎて、却って一番印象に残っている夏の思い出。