不可能ではない絶対的なこと
「それでね。お母さんが交通事故に遭った時、向こうの親が、それ見たことかとでも言い長けに、お骨は実家が引き取るという話になったというの。駆け落ち同然で一緒になったという後ろめたさでしょうがなくお墓も仏壇も向こうの家にあるらしいんだけど、そのおかげで、私はお父さんが親権を持っていていいということと、お母さんとのことを事後で許してくれるということになったということなの」
と舞香が話してくれた。
「なんとなくどこかおかしな気がするんだけど、でもそれも大人の世界のことで、しょうがないことなのかも知れないのよね」
と明日美は納得したつもりになって答えた。
明日美は続けた。
「だから、舞香はそんなお父さんと一緒にいて、何となくお父さんの苦悩が分かっていたから、余計なことを今まで聞かなかったということなのかしら?」
「ええ、そうかも知れない。確かに言われてみれば、聞ける雰囲気ではなかったということなのよ。私に勇気がなかったのもそうなんだけど、聞いてみて、会話になった時、お互いに何を話していいのか、まったく想像がつかなかったのが、聞けなかった最大の理由なのかも知れないわ」
舞香の話をここまで聞くと、明日美にも納得ができる気がした。
――段階を持って納得できるから、理解できているのかも知れないわ――
直で納得するということは、今までに何度もあったのを覚えているが、そのほとんどが段階を追っての納得だった。そう思うと、自分が納得と理解を同時にする時というのは、――段階を追って少しずつでなければできないことなのだ――
と言えるのではないだろうか。
明日美が舞香の話をそんな気持ちで聞いているなど、舞香には分かっていなかっただろう。
それは当然のことであって、こんなことを考えているなど、話をしてくれている人に分かってしまうのは失礼に当たると明日美は思っていた。ただ、相手の話を理解して納得に至るまでに自分がどのような精神状態にあるかというのは大切なことで、それが分かっていないと人の話を聞くなどということが自分にとってどれほど大それたことなのかということを思い知らされるのではないだろうか。
「舞香のお父さんってどんな人なのかしらね?」
と明日美が聞くと、
「ただの気の弱い父親よ。でも、時々キレることがあって、怖い時があるわ」
と言った。
その表情は父親を蔑んでいる表情で、毛嫌いしている雰囲気とは少し違っていた。そのことに明日美は気付いていたが、最初に舞香の父親に対しての表情としては至極当然のものだったので、なかなか不思議な雰囲気にたどりつくことはなかった。
「父親って、子供には本当の顔を見せないようにしようとするものなんじゃないかな? だから舞香のお父さんもそんな風に見えたとか?」
明日美は、少しでも舞香の気分を損ねないように父親の擁護をしながら話に相槌を打つつもりだった。
「そんなことはないわよ。父親なんて結局は男でしかないのよ。相手が娘と息子とではきっと対応の仕方も違うんだと思うわ」
「でも、子供って異性の親に似ていたりなついたりするものだって聞いたことがあったけど、どうなのかしらね?」
「それは一般的な話であって、実際にはそうとは限らない。明日美のお父さんはどうなのよ」
と言われて明日美は自分の父親を思い出していた。
明日美の父親は商社マンで、いつも海外出張ばかりだった。ほとんど家にいることがなく、父親がどんなものなのか分からず、分からないだけに憧れだけがあった。しかもその憧れは絶対的なもので、どんなに父親と会話のない家庭でも、自分よりはマシではないかと思っていたのだ。
明日美が、自分の父親が商社マンで海外出張ばかりで寂しかったという話を舞香にすると、
「そう、それは寂しいわね」
と、けんもほろろで答えられた。
その返事は明日美にとってまったく予期していない返事であり、明日美の中で戸惑いとなって残ってしまった。
――どうしてこんなに他人事のように言えるのかしら?
今までにも感じたことがあった舞香の冷徹な部分だったが、この時ほど極寒なものはなかっただろう。
「ええ、そうね。寂しかったわね」
と、相槌を打つしかなかった明日美だったが、舞香にとって明日美の相槌は想定内のことなのであろうか?
「私、お母さんがいなかったから、お父さんしか頼る人がいなかったのよ」
と舞香は言った。
確かに舞香にとって父親は父親本人でもあり、母親代わりだったのかも知れないが、今の舞香の言い方は、母親代わりというよりも、生きていくうえで頼る人間という意味での表現であり、家族愛以上のもっと切実な思いが舞香を支配していたのではないかと思わせた。
「私は、今のお父さん、本当のお父さんじゃないの。お母さんの再婚相手なの」
と明日美も言った。
「血が繋がっていない父親でも、いないと寂しい思いがするものなの?」
と舞香が聞いてきた。
「ええ、お母さんが再婚するまでは、お父さんがいないのは当たり前のことだって子供心に思ってた。でも、血が繋がっていなくてもお父さんができると、いない時、寂しいと感じるものなのよ。ひょっとすると、お父さんがいないのが当然だと思っていた時期に、自分が痩せ我慢をしていたんだって気付いたからなのかも知れないわね。だから、寂しさを感じるだってね」
と明日美がいうと、
「それって、欲なのかも知れないわね」
と舞香が言った。
「欲? 言われてみればそうなのかも知れないわね。痩せ我慢をしていた時期の自分を思い返して、もう痩せ我慢しなくていいって言っていたような気がするわ。でも、それが欲だったという考えはなかったわね」
「欲っていうのは、一度失くしたものが出てきた時、もう二度と失くさないようにしようと思うことも一つになるのかも知れないわね。一度知ってしまった思いは後悔となって自分の中に残る。それを再度リベンジできるんだから、余計に二度と失くしたくないと思うんでしょうね」
という舞香に対し、
「欲にも種類があるのかも知れないわ。消極的な欲と、積極的な欲とがね」
「その通り、今の明日美の話に出てくる欲というのは、消極的な欲なのかも知れない。消極的な欲というのは、他の人に分かる分からないは別にして、自分の中で隠したいと無意識に感じているものなんじゃないかって私は思うのよ」
と舞香は言った。
「じゃあ、舞香はお父さんに対して、欲というものを感じないというの?」
「ええ、子供の頃に感じていた甘えたいという感情は、欲ではないと思うの。それを欲だと思ってしまうと、自分の中で持っている父親像を崩してしまうような気がするのよね。だからお父さんに対しては、感じたことをそのまま受け止めるようにしているの」
と舞香は言った。
「私は違うかも知れないわ。父親に血の繋がりがないからそう思うのかも知れないんだけど、どこかお父さんに対しては遠慮のようなものがあるのよ。きっと自分なりの父親像というものがあって、血が繋がっていないんだから、自分なりの父親像に近づくことさえないという思いを抱いているのかも知れないわね」
と明日美が言った。
作品名:不可能ではない絶対的なこと 作家名:森本晃次