不可能ではない絶対的なこと
「今の明日美の言葉の中で、『お父さんに対しての』という件は、いかにも血が繋がっていない相手に対してのものだって気がするわ。それは私に言わせれば遠慮ではなくて、自分から遠ざけているからなんじゃないかって思うの」
と舞香が言ったが、それを聞いて明日美は少しムッとした気分になった。
――あなたに何が分かるのよ――
と言いたい気分だったが、今の舞香にそれを言ってしまうと、話が空転してしまい、二度と重なることがない気がした。少しでも線をたがえてしまうと、この会話は成立しないだろう。明日美は舞香を直視できなくなっていた。
「舞香こそ、お父さんに対してどう感じているのよ」
と聞いた。
明日美としては、少しでも反抗したいという思いがあったのと、話を他に逸らしたいという思いから、こんな質問になったのだ。
「あの人を私は父親だとは認めたくないの」
完全に捻くれているようにしか見えなかった。
「どうして? どうしてそんなに頑ななの?」
と聞くと、舞香は少し遠い目をしたかと思うと、今度は目の前を凝視しているかのように見えて、明日美が黙っていたが、少ししておもむろに口を開いた。
「あの人は、私に襲い掛かってきたことがあったの」
と、明日美は信じられない言葉を聞いてしまったことに気が付いた。
「えっ?」
明日美は自分の発した声が言葉となって相手に伝わったのかどうか分からなかった。
舞香も、明日美を振り返ることなく考え込んでいるようだったが、すぐに軽く頭を下げたことで、明日美は自分の声が相手に届いたことを理解した。
「一度だけのことで、しかも未遂だったので、このことを知っているのは私とお父さんだけなの」
舞香の母親は亡くなっているので、母親が知ることはないだろう。
――もし、舞香のお母さんが生きていれば、舞香の苦しみはもっと大きかったのかしら?
と明日美は思った。
ただ、明日美の中で、
――どうして、今舞香はずっと秘密にしてきたことを私に打ち明けてくれたのだろう?
と感じた。
考えられることとしては、一人で抱えていることを苦しく感じたからではないかという思いだった。誰かに打ち明けるとすれば、その相手がたまたま明日美だっただけのことなのか、それとも明日美に打ち明けたのは、最初から決まっていた相手だったということなのか、明日美はそこまで舞香のことを知っているわけではなかった。
明日美としては、本当は聞きたくない告白だった。
――こんな告白をされても、私にはあなたに何と返事をしていいのか、分からないわ――
と、ただ戸惑うだけの自分に明日美は狼狽していた。
そして、急に足枷を嵌められたようで、重苦しくなった雰囲気に呼吸困難に陥ってしまいそうな状況に、
――どうしてくれるのよ――
と、思ったことで、今の自分がどんな表情になっているのか、急に気になってしまった。
きっと、目の焦点が合っていることはないだろうし、舞香を直視できるはずもないことは分かっていた。
――舞香は、本当にどういうつもりで私に話をしたんだろう?
確かに舞香とすれば、明日美の話にじれったさを感じていたのかも知れない。明日美は舞香の中に苦しみがあるのを感じてはいたが、胸に抱えている気持ちが想像とは違っていたことに困惑していた。
明日美の想像は次第に妄想へと変わっていく。
――まるでテレビドラマのようだわ――
テレビドラマでは、父親に蹂躙される娘の姿を描いた作品も時々シーンとして見ることがあった。
ただ、あまりにも自分とはかけ離れた世界の出来事だと思うことで、他人事としてしか見ていなかった。
――いや、他人事として見ようという意識があったのかも知れない――
人にはタブーという意識があり、タブーに抵触するような内容には、なるべく目を背けて、他人事だと思うようにするような気持ちが働く。
それを本能というのだという意識は、明日美にはあった。本能という言葉は明日美も嫌いではない。
――本能があるから、人は生きていけるんだ――
と漠然とであるが、本能への定義をそう感じていた。
そもそも本能というのは条件反射に近いもので、漠然としたものでしかないと思っている。条件反射とは、本能が表に出てきたものであり、狭義の意味での本能の表れだと思っている。だから、本能というものは広義の意味でしかなく、
――広義なものは漠然としているものなのだ――
と考えていたのだ。
そういう意味では自分の中でタブーと感じているものも漠然としたもので、もし誰かから、
「タブーって、どういうものをいうの?」
と聞かれると、どう答えていいのか返答に困るはずである。
その言葉を額面通りに受け取って、タブーという言葉の定義について答えようとするのか、それとも、タブーと考えていることを例えとして答えようとするのかを考えてしまうからだ。
たぶん、後者の方を明日美は考えることだろう。もしそうだとすると、自分の中にあるタブーを思い返してみて、あらためて考えるとすぐに何が思い当たるというのだろう?
もし、その時に一つのタブーがあって、そのタブーが話題になったうえで質問されたことであれば、いくらか答えようもあるだろう。しかし、まったく前兆もなく、いきなり聞かれたのであれば、答えようもないというものである。漠然としているというのは、そういうことを言うのではないだろうか。
明日美はこの時、舞香が何を言いたかったのか、考えてみた。
その時にはビックリしたという思いと、他人のタブーに足を踏み入れそうになっている自分に恐怖を感じ、余計なことを考える余裕などなかったが、あの後、少し沈黙の時間が流れたが、最後は舞香の方から、
「このお話は、これでおしまい」
と言ってくれたことで、フリーズしていた時間が解放されたのだった。
――フリーズしていた時間?
それは文字通り凍り付いた時間であった。
フリーズしていたと言っても、完全に固まっていたわけではない。時間の流れが極端に遅かっただけで、もしその場で誰から拳銃をぶっ放したとすれば、その弾丸は少しずつ標的を目がけて近づいていたに違いない。
硝煙反応の残り香が感じられるほどの空間に風だけが時間の遅さに逆らって、普通に吹いている世界だった。標的目がけて突っ込んでいく弾丸は、ひょっとするとその風に煽られて、方向を変えるかも知れないと感じるほどのスピードの違いであった。
もし、その状況で、普通の時間を過ごしている人がいるとすればどうだろう? 一気に身体が反応できずに、あっという間に死が訪れていたかも知れない。
これも明日美の妄想だった。
明日美は一度妄想モードに入ってしまうと、どこかで抜けることのできるホールを見つけないと、自分では抜けられないと思っている。今までにはホールを見つけるタイミングはドンピシャで、綺麗に抜けてしまったことで、自分が妄想モードに入っていたことは分かっていたが、入ってからのことはまったく記憶にない。もちろん、どのように抜けたということも覚えておらず、
――覚えていること自体がタブーであり、許されないことなんだ――
と自分に言い聞かせていた。
作品名:不可能ではない絶対的なこと 作家名:森本晃次