不可能ではない絶対的なこと
母親に対しても本当はそうなのかも知れないと思ったが、それは、自分が認めたことに対して納得できないと考える方が、矛盾というものを正面から考えた場合に出てくる考え方として安易な場合が多いと考えられるからだった。
「長所と短所は紙一重」
と言われ、その紙一重というのは、
「背中合わせだ」
という言葉に言い換えることができる。
矛盾に対しても同じことが言えるのではないだろうか。
考え方の発展性にまったく逆の方向から考えるという発想に、紙一重であったり、背中合わせであったりする考え方は、長所と短所のように、何かの比較対象がなければ成立しないと思える。
矛盾というのも、言葉通り、矛であったり、盾であったりするものが存在している。それが自分に対して納得するということであり、自分が認めるという考え方であったりと、形として形成されていないものであっても、ありえるという当たり前のことに気が付くのは、その時の精神状態によるものなのか、それともその人の持って生まれた感性によって、決まった瞬間が待っているということなのか、明日美はいろいろと考えてみた。
ただ、明日美はその相手を母親に見出したくない。そう思うことで自分に矛盾を感じたという事実を認めたくない自分もいる。そう思うと父親がいつも苛立っていた理由もなんとなく分かってきた気がした。
――お父さんも、矛盾を感じていて、それを発散させる場所がなかっただけのことなのではないか?
と感じた。
家族の長として怒りの矛を収めなければいけない立場だったのだが、八つ当たりにしか見えない自分に父親はどう感じていたのだろう?
娘から、
「なんて、ひどい父親なんだ」
と思われていることは重々承知なのだろう。
そう思いながらも母親に怒りをぶつけるのは、他ならぬ娘である自分に怒りをぶつけないようにしているという証拠なのだろう。
明日美はそう思うと、今では父親に対して怒りを感じることはなくなった。しかし、今までの思いから、急に父親への思いを変えてしまうことは怖かった。
せっかく父親が母親への怒りの矛先を、母親本人に向けようとしてくれていることに気付かせないようにしようとしている態度を考えると、急に態度を変えるのはよくないことだと思ったのだ。
家での態度を変えることをしてはいけないと思うと、明日美はあまり家にいたくないという思いが強くなった。
――どうにもうまく噛み合っていない状態だと、一歩下がって全体を見つめなければいけないのかも知れないわ――
と感じたこともその思いに拍車をかけた。
明日美は、宗教団体が行っているビラ配りを見ながら、そこに父親がいるのではないかという、ありえない想像をしている自分に気が付いた。
――ありえないことほど、想像してみると楽しいことはない――
まったく表情を変えることなく、ただビラを配っているだけの父親は、本当に面白くないような顔をしていた。
それはまるで洗脳されている人が、何も考えることなく、言われるがままで行動していることを示している。
――それこそお父さんらしいわ――
と明日美は考えていた。
そんなイメージをありえないと言いながら、まったく違和感なく想像できるのも、一種の矛盾に違いない。
矛盾についてもいろいろ考えてみた。
学校で習う学問の中にもいろいろな矛盾が隠されているような気がしていた。数学などは問題に対して、回答が必ず一つはあるものだとして納得しているが、
――そういえば、中学の時に先生から、「解なし」というものが存在するという話を聞いたことがあったわ――
というのを思い出した。
その時は別に不思議にも思っていなかったが、問題があって必ず一つ以上の回答があるという数学に、解なしなどという発想が存在するというのは、今考えれば、それこそが矛盾と言えるのではないだろうか。
またもう一つの考え方として頭に思い浮かんだのは、
「メビウスの輪」
というものだった。
それは異次元への入り口のように言われているもので、一本の帯の中央に、一つの直線を引いて、その線を捻じることで重なるはずのない直線が重なるというものだったように思う。それこそが矛盾というものだ。
また明日美の考えたこととして、
「鏡に映した姿」
というものを想像してみた。
鏡に写った姿は、左右対称であるというのは誰もが把握している事実である。そのことに対して異議を唱える人は誰もいないだろう。
しかし、
「なぜ、上下が対称ではないのだろうか?」
ということに疑問を呈する人はそうはいない。
「言われてみれば、確かにその通りだ」
と思うのだろうが、最初から疑問として頭に描く人はなかなかいないだろう。
それについては学説としては定説があるように聞いたことがあったが、そう簡単に理解できるものなのかよく分からない。
今こうやって考えているから分かる気がするのかも知れないが、他のことを考えたり、考えることをやめたりすると、その思いは急に冷めてしまって、もはや思い出すこともなかなか難しくなるのではないかと思えてきた。
そういう意味で、似たような発想として矛盾というか、不思議に感じることもあった。それは鏡に写った左右対称に上下対称という発想よりも、生活に密着したものではないので、なかなか気付くことはないだろう。
しかし、こっちの方がキチンとした学説として成り立っていることを明日美は、学校で先生から聞いたことがあった。
あれは高校の時だっただろうか。それを教えてくれたのは数学の先生でも科学の先生でもなく、美術の先生だった。それは、美術的なビジュアルに訴えることで確認できることであり、芸術家ならではの発想ではないだろうか。
「皆さんはサッチャー効果という言葉を聞いたことがありますか?」
と先生が言った。
その先生は女性の先生で、時々急に不可思議な話をする人だった。
その時は誰も頷く人はいなかったが、実際に知っている人もいるようだった。先生はそのことを分かっていて、敢えて触れようとしなかったが、その言葉に興味を持った生徒は明日美だけではなかったようだ。
先生が続けた。
「サッチャー効果というのは、正面から見た絵と、逆さにして見た絵で、まったく違った絵になるものを言います。左右から女性が覗き込んでいる絵を逆さから見ると、花瓶のように見える絵を皆さんの中で見たことがある人もいるかも知れません。錯覚の一瞬なんでしょうけど、人間には錯覚を受け入れるという柔軟な目を持っているということを忘れないようにしてくださいね」
と言っていた。
その時に質問した人がいて、少し詳しく話が進んだのを覚えているが、それがどんな内容だったのかまで覚えていない。
「サッチャー効果というのは、なるほど、人間の錯覚が生み出したものなんでしょうけど、それは考え方にも言えることなんだって先生は思っています。人は矛盾というものを誰もが抱えていて、それをどこかで納得させたいと思っているんでしょうね。でもそれを納得させてしまうと自分の考えが何か一つに凝り固まってしまうという疑念を抱いている。だからなるべくなら、矛盾は矛盾として残しておくような習性があると私は思うんです」
作品名:不可能ではない絶対的なこと 作家名:森本晃次