不可能ではない絶対的なこと
明日美の中でのフリーズは、今に始まったことでもなく、今までに何度もあったことだった。それだけに、
――フリーズを起こすのは私だけではないに違いない――
と思っていて、そのうちに誰かと同じフリーズに落ち込んでしまい、その中で出会ったことをお互いにビックリしてしまうと考えていた。
それこそ妄想であり、夢とフリーズ、そして妄想をごっちゃにしてしまうようになっていたのだ。
真実と事実の狭間
しばらくしてから舞香と会うことはなかった。舞香の仕事が忙しいというのもあったのかと思ったが、どうやらそうでもなかったようだ。明日美はそれからも平凡な毎日を過ごしていたのだが、舞香のことを思い出すことはあまりなくなっていた。
今までに知り合った人の中でも印象深い相手だったにも関わらず、なぜ思い出すことがなかったのかということがどういうことなのかと考えていたが、
――また近いうちに出会う――
という思いと、
――彼女とはここまでだったんだ――
という思いとが交差しているようで、その中間をとって、舞香に対しての意識が中和された感覚になっていたのではないだろうか。
明日美は四月になって進級したが、高校までの頃のようにクラスがあるわけでもないので、さほど進級への意識はなかった。それよりもそろそろ就職活動を控えていることを考えると、もう学生気分だけではいられないことへの一抹の寂しさを感じていた。
――結局、友達もできなかったわね――
と思っていたが、そんな時、駅を降りてすぐのところでビラ配りをしている集団を見かけた。
雰囲気は明るいわけではなく、暗い人たちが多かった。いつもであれば、そんな集団を見て見ぬふりをして、なるべく目を合わさないようにしていたのだが、その日はビラを受け取ってしまった。そこに書かれている内容を見ると、明らかに宗教団体。ほとんどの人はビラを受け取ることさえ拒否していて、目を合わせようとしない様子を見ていると、それはまるで普段の自分を見ているようで、複雑な気分だった。
明日美もアルバイトでビラ配りをしたことがないわけではなかった。街頭に立ってのビラやティッシュ配りは何度かある。そのたびに、
――受け取ってもらえるだけでありがたい――
と思っていた。
だが、道行く人のほとんどは、こちらと目を合わせようともしない。それは自分を思い出せば分かることなのだが、その時の心境としては、
――なんて鬱陶しいんだ――
という思いしかなかった。
きっと目を合わせると、露骨に嫌な顔を向けたに違いない。そういう意味では視線を逸らしてくれる方が幾分か気が楽なはずなのに、無視されるという状況が続くと、分かっていることではあっても、胸に痛みを感じる。
――これって何の罰ゲームなのよ――
ただビラやティッシュを配るだけでよく、受け取ってもらおうが無視されようがもらえる時給に変わりはない。そういう意味では決してきついバイトではないのだが、精神的に痛みを感じさせられるというのは困ったものだった。
たまに無意識に受け取ってしまうこともあった。そんな時は何か考え事をしながら歩いているので、何かを差し出されると無意識に受け取ったというだけの条件反射にしかすぎないのだが、相手は歓喜に満ちた表情で、
「ありがとうございます」
と言って、喜んでいた。
ただ、その表情は喜びというよりもホッとしたという安堵の表情だった。やはり彼らにも言い知れぬ精神的な蝕みに得体の知れない寂しさを感じていたところに受け取ってくれる人がいるだけで、救われた気がしてくるのだろう。
――私は受け取ってもらった時、どんな表情になっていたんだろう?
と思い返したが、この人のようにあからさまな喜びを表したという気がしていない。
むしろ、受け取ってもらったことはあったはずなのに、歓喜の気分になったという記憶はない。その一瞬で喜びは消えてしまったのか、それともある時突然に、喜びの意識が消えてしまったのか、それは記憶の奥に封印されたわけではなく、完全消滅に近いものだったような気がする。
この日の明日美は、確かに意識としてはボーっとしていた。何かを考えていたのだろうが、何を考えていたのかすら、すぐに忘れてしまうような精神状態だった。
こんな精神状態に陥ることは短大に入って何度かあった。
高校時代までにもあったのだろうが、意識としては違うものだった。躁鬱症に似ていると思っていたが、実際の躁鬱症と違う気がした。自分が他の人と同じでは嫌だという意識があるからなのかも知れないが、躁鬱症にもいくつかの種類があるような気がして、その中でもかなり薄いところを自分が引き当てたような気がしていたのだ。
――だから、まわりからは私のことを躁鬱症だって思っている人はいないと思うわ――
と感じていた。
それなのに、友達も少なく、一人でいることに対して寂しさを感じるわけではないのに、別の意味での寂しさを感じていた。それは一人を寂しいと感じている他の人の感覚に近いものではあるのだろうが、決して交わることのない交差点のように、お互いに意識が重なることはないと思っていた。
ビラを受け取ったことで喜んでいる人の顔を見ると、
――懐かしいわ――
と感じた。
この人の顔を見て、自分が以前にも同じような感覚に陥ったことを思い出したのか、それとも単純に、かつて似たような表情をしている人をどこかで見たということを懐かしく感じているだけなのかも知れないと思うと、
――そのどちらでもないかも知れない――
という思いもこみ上げてきて、
――私って、やっぱり天邪鬼なんだわ――
という思いにさせられた気がした。
「これは何かの宗教団体なんですか?」
明日美は笑顔を向けている相手に聞いてみた。
「宗教団体と考える人もいるでしょうね。私もそう思っていました」
その人が明日美と同じくらいの年齢の女の子だったこともあって、思わず話しかけてしまった明日美だが、話しかけたことに対して後悔はなかった。だが、相手に答えを求めていたわけではなく、ごまかされたのであれば、それはそれでいい気がした。
――ただの冷やかしだって思えばいいんだわ――
と思うだけのことであって、宗教団体ならその時だけのことで済ませばそれでよかったのだ。
しかし、彼女の回答は、明日美の求めていたものではなく、マジでの返答だった。しかもその返答には、どこか気になるところを残すものであって、冷やかしで聞こうとした自分の気持ちを察したかのような見事な受け答えをされてしまったような気がしていた。
「私もそう思っていたというと、今は違うということなんですか?」
とこれも思わず聞き返してしまった。
このまま何も聞かずに終わらせることは、明日美にとって中途半端で終わってしまいそうで、嫌な気分になっていた。
「ええ、そうですね。宗教団体だと思って、私は半分冷やかしの気分だったんですが、話を聞いてみると、宗教というよりも科学に近いような気がしたんです。確かに宗教団体と言われると、そう見えるかも知れませんが、受け取る人それぞれなんだと思うと、今私がここにいる意義を感じることができるんです」
作品名:不可能ではない絶対的なこと 作家名:森本晃次