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短編集55(過去作品)

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 ある日、帰りが遅くなった典子は、一人レジで清算業務をしていた。皆それぞれ自分の清算を済ませて帰るのだが、今まではうまく行っていた典子は最後になることなどなかった。その日はなぜか数字が合わなかったのである。
「青木さん、どうしたんですか?」
 何とか済ませて店を出た時、後ろから声を掛けてきたのは吉住主任であった。表は真っ暗になっていて、街のネオンサインが眩しいくらいだった。
「レジが合わなかったので、少し遅くなりました。でも大丈夫です」
 スーパーは夜の部のパートさんが働いていた。暗い表から明るい中を見るとよく見える。一生懸命にレジ業務をしている人を見ると、
――私もあれだけ頑張っているのかしら――
 と感じる。自分もあれほど真剣な面持ちになっているようには思えないからだ。一生懸命になると感覚が麻痺してくるものなのかも知れない。
 その日は時間的にも中途半端、しかも夫の青木は仕事で遅くなるので、食事は表で済ませてくることは分かっていた。そんな時は決まって酔って帰ってくるので、ほとんど会話をすることもなく寝入ってしまう。このまま帰っても一人になるので、その日は最初から表で何かを食べるつもりでいた。
 時間的には午後八時前、ネオンサインも賑やかに見える。瞬いて見えるといっても過言ではない。
「よかったら、食事、ご一緒しませんか?」
 吉住主任の声は上ずっていた。冷静に話をしているつもりなのだろうが、半分声が裏返っている。意を決しての言葉だったに違いない。
 またしても健気さを発見し、胸がキュンとなってしまった。しかし。少し小悪魔的な考えが浮かんだのも事実で、少し思わせぶりになった。
「どうしようかしら」
 そのセリフは想像していなかったのか、吹き出した汗をハンカチで拭っている。またしても悪戯してみたい気持ちにさせられる。
――かわいいわ――
 男性にこんな気持ちになるなんて……。
 少なくとも今までに自分の知っている男性に感じたことのない気持ちだった。
 歩きながら足元を見ると、影が長く伸びている。街灯に照らされて、足元から放射状にいくつも現れた自分の影を見つめていた。
――どれが本当の自分の影かしら――
 従順な妻であり、今が一番従順な性格だと思っていた典子に浮かんだ小悪魔のような性格、自分でもビックリだが、足元から伸びている影を見ていると、
――まんざら今までにもなかったわけでもないのかも知れないわ――
 と感じていた。無理に感じないようにしていたのかも知れない。自分を押し殺すということに違和感があった典子は、認めたくない気持ちを考えないようにしていたに違いない。
 影を見ながら歩いていると、影がゆっくりと自分を中心に縁を描いて回っているように見える。通り過ぎた街灯は遠くなり、目の前の街灯が近づいてくるのだから当たり前だが、じっと足元を眺めていると、同じような感覚を以前にも感じたように思えてきた。
――初めて青木に抱かれた日だったかしら――
 その日は街灯に照らされた足元の影に感動を覚え、さらに空を見上げた時に見えた月にも感動していた。
 完全な満月だった。黒い部分もハッキリと見えるくらいの満月。月のまわりには少し雲があったが、決して月を隠そうとはしない。むしろ月を避けるようにして存在しているようであった。
――満月ってあまり意識したことがないわ――
 実際に満月を見たことがあったはずなのだが、意識して見たのは初めてだったはずである。
 見上げた顔が光っているのを感じていた。もし隣にいる青木の顔も光って見える。自分がどれくらい光っているのか見てみたい気持ちになっていると、急に人恋しくなってきた。
 何となくドキドキしてくるものがあった。
――そろそろかしら――
 青木に誘われるのを心待ちにしている自分に気付いた。元々気付いていたのだろうが、どこか浅ましさを感じることで、意識しないようにしていたに違いない。その日の満月が典子をその気にさせたのかも知れない。
――満月は人を狂わせる――
 月が奏でる狂想曲が耳の奥から聞こえてくる気がしていた。
 丸いものはどうしても人の心を迷わせるのかも知れない。落ち着いた気分になるからである。
 そういえば青木と結婚することを決意した日も、青木がプロポーズしてくれた日も満月だった。
 実は結婚はプロポーズの前から決意しており、いつプロポーズされるか待っていた状態だった。少し決意があることを匂わせていたが、青木がそのことを察知していたかどうか分からない。たぶん分かっていたのではないだろうか。満月を一緒に見上げていたからである。
 破局を迎えたのは結婚してから三年が経った時だった。それまでに燻っていたものが爆発した結果だが、結婚一年目から、違和感があったのである。
――私はこんな人と結婚したんだ――
 これが本音だった。
 悪いところばかりの人ではない。むしろいいところの方が多い人かも知れないが、典子から見て悪いところが目立った。結婚生活を営むには決定的にダメだと判断したのが、三年目だったということである。
 青木にもそれなりに分かっていたのかも知れない。決定的瞬間を目撃し、それをマシンガンのように責め立てた。青木はほとんどいいわけをすることがなかった。下手な言い訳をする人間が一番大嫌いなことをお互いに分かっていたからかも知れない。
「離婚は結婚の十倍以上のエネルギーを使うからな」
 と大袈裟に思えるような話を聞いていたが、決してウソではなかった。お互いに納得ずくで別れているはずだったのに、精神的にはクタクタである。楽しかった日々が頭の中で巡っている。だが、青木の顔を見ると、その気持ちは消えてしまうのだ。楽しかった日々を与えてくれたのは紛れもなく青木だったはずなのに顔を見て想像できなくなってしまうと、もう破局しか残っていない。
「別れましょう」
 典子からそう告げると、少なからずのショックをあらわにした青木だったが、それも仕方がないと思っているのか、返事は返ってこなかった。気持ちの整理ができていないのは当然だが、なかなか煮え切らない性格であることは分かっていた。嫌いな性格の一つであるだけに、焦っても仕方がない。
 青木もいろいろなことを考えているだろう。余計なことを考えるタイプの男性なので、袋小路に入り込むかも知れない。そんな時にせかしても同じことだ。却って冷静に見ている方が、考えを纏めるには早道である。どの道、元には戻れないところまで来ているのは目に見えている。
 それでもずっと待っているのは精神的にきつい。そろそろ我慢にも限界があると思い始めた時に、やっと彼との離婚の話が成立した。
――これで私も自由だわ――
 少なからずそう感じていた。彼も同じことを思ったかも知れない。少なくとも一度はどこかで開き直りを見せないと、離婚などできっこない。典子のその時が開き直りだったに違いない。
 しかし、自由だと感じたのは離婚してすぐの半年間だけだった。
 女性は妊娠の問題もあることから半年間は再婚ができない。人恋しいと感じていた半年間。その間は我慢しなければならない時期だった。
作品名:短編集55(過去作品) 作家名:森本晃次