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短編集55(過去作品)

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 と思える人も正直何人かいる。
「新人なんだから、新人らしくしないとね」
 と、研修前に会った恭子に言うと、
「そうね。そこがあなたらしいわ」
 と、言ってくれた。
 考えてみれば、離婚するにあたって、そのあたりが原因でもあった。
 夫は、自分もセールスマンをしているが、まずは恰好から入る人だった。まわりを固めることで、自分もその気になるというタイプであるが、そんな性格を瑞枝はどこか許せないでいた。
 いくら夫といえども他人である。自分でする分には口出しをする気はなかったが、夫の会社の創立二十周年記念という祝賀パーティが開かれることになった時、家族も招待されることになった。世間体を気にする旦那が妻を呼ばないわけはない。
 瑞枝とすれば、お付き合いで出席しているだけだった。別に着飾っていくこともないと考えている。
 小学生の頃にあった家庭訪問。
「先生が皆の家を回るので、お母さんたちには普段、皆さんが家庭でどんな生活をしているか、見せていただきます」
 と先生が言っていた。当然子供心に、
――着飾ることもなく、ありのままを見せるんだ――
 と思っていたが、実際に母親は慌ててしまう。
「先生がお部屋を見に来るかも知れないので、瑞枝は自分の部屋を綺麗にしなさい」
 と、いつも静かな母親が真剣になって言っている。そして自分もリビングや玄関先などを一生懸命に掃除をしている。普段からしていれば違和感はないのだが、普段見せたことのない真剣な表情に、その日は完全に特別な日になってしまっていた。
――大人って、裏表があるんだ――
 と感じたのはその時からで、整理整頓に違和感を持つようになったのもその時だった。整理整頓が苦手な言い訳にしてしまいたいのも、自分の中でだけは納得できることであった。
 そんな性格を象徴するかのような黒い手帳。高洲さんに珍しいと聞かれて違和感はなかった。
「手帳が私を呼んだとでもいうのかしら」
 半分冗談交じりであったが、半分は本気だった。高洲さんはそんな瑞枝から何を感じ取ったのであろう。それ以上は質問してこなかった。
 研修も終わり、後は先輩について実地研修を行うだけだった。
 先輩はセールスレディとしては可もなく不可もなくの人のようだが、瑞枝には、底の知れた人にしか思えなかった。
「あなた、その手帳は止めた方がいいわ」
 一言手帳に対して文句を言った。それ以上のことは言わない。
――止めた方がいいって、それだけなのかしらー―
 れっきとした理由があるわけでもなく、相手に対して見下すような言い方しかできない人は、瑞枝が考える最低部類の人である。
――でも、意外とそんな人って多いのかも知れないわね――
 と考えたが、そんなことで自分の意志を覆す気になどなるはずはない。先輩に対して感じたのは軽蔑以外の何者でもない。
 瑞枝は独り立ちを始めると、意外と成績がよかった。自分に対して妥協せず、貪欲にいろいろなものを吸収し、さらに惜しげもなくまわりに見せる性格は、顧客の中には会社社長もいるが、その人にして、
「女性にしておくのがもったいない」
 と言わしめたものだ。
「あなた、あの社長からそんなことを言われるのは、光栄だと思ってもいいわよ。あなたにとっての勲章ね」
 と、この話をした恭子から、手放しで喜んでもらったのが印象的だった。
 実は、会社のシステムがピラミッド型の階層形式になっていて、恭子の下の方に瑞枝がいる。下の方の成績の良し悪しで、上の方の特別ボーナスが決まることもあって、上の方の人は自分のことだけでなく、下の人の面倒も真剣に見るようになる。一般的なシステムなのだろうが、実に理想的である。
 瑞枝の持っている黒い手帳にもたくさんの名前が書かれるようになった。だが、書いているのは名前だけである。一人目の顧客から、ずっと書かれている。顧客の情報が書かれているわけではない。
「今は個人情報を下手に持ち歩くわけにはいかないからね」
 最初は、手帳にいろいろな情報を書くつもりでいたが、個人情報保護法の観点で、会社から個人情報の書いたものを持ち出すことを禁止されていた。
 瑞枝は、仕事が終わってから、時々馴染みのスナックに寄っていた。こじんまりとしたスナックで、カウンターにテーブル席が少しと、あまり派手ではない。カラオケは置いているが、客層自体が静かに呑むことを望んでいるのか、誰もカラオケを歌いだす人はいなかった。
 そこで、ある日偶然手帳に書いた一人に出会う。しかも一番最初に書いた名前の人で、残念ながらまだまだ駆け出しの頃だったので、顧客にすることができなかった。
「あれ? あなたは」
 最初に男が瑞枝のことに気がついたようだ。瑞枝は正直忘れていた。仕事にも慣れてきて、顧客も次第に増えてくると、いちいち最初の頃に声を掛けた人、しかも顧客になりそこなった人のことなど覚えているはずもなかった。
 だが、男は覚えていたのだ。
「どうして私を覚えていてくださったのですか?」
「黒い手帳ですよ。あんな手帳を持っている女性なんて珍しいですからね。それにあなたが言ったあの時の言葉、今でも忘れませんからね」
「何て言いましたっけ?」
「この手帳を、人の名前で一杯にしたいから、お名前書いていいですかって私に言ったんですよ」
「えっ、私が言ったんですか?」
 話を聞いて、まったく思い出せないのが本音だったが、男の顔を見ていると、そんな話をしたと半分くらいまで思い出していた。
 確かに手帳を名前で一杯にしたいという願望はあった。だが、それを人に軽々しく話したという自分が信じられなかったのだ。
「ちょうどその時に他の会社の保険に入りなおしたばかりだったので、本当はすぐに断ればよかったんですが、結局あなたの話を聞いていましたね」
「そうだったんですか」
 脈があるかないかなど、新人にはなかなか分からない。だが途中から、
――この人はダメみたい――
 と分かり始めていた。だが、急に行かなくなってしまっては中途半端な気持ちになってしまい、次に責める人に対しても中途半端で終わってしまいそうに思えてならなかった。
 今までで一番熱心に勧めたのがこの人だったかも知れない。
 一緒に呑んでいて、その時のことが思い出されて、新鮮な気分になっていく。何よりも自分のことを覚えていてくれたことが嬉しかった。
 名前を志垣というその男性に、次第に惹かれていた。
 スナックに顔を出すたびに、彼がいるような気がして、頻繁に通うようになった。身体の関係になるまでには、それほど時間が掛かったわけではない。どちらが求めたというわけではなく、実に自然な関係だった。
 ベッドの中で志垣に抱かれながら、なぜか他の男性の顔が浮かんでくる。それは手帳に書いた男性たちで、そのほとんどが、保険に入ってもらえなかった人たちである。
――自分にとって思い通りにならなかった男性――
 それまでの瑞枝は、手帳に書くことで、
――男性を自分の意のままにしたい――
 という願望があったのかも知れない。保険のセールスをしている恭子が輝いて見えたのは、保険を勧誘することで、男性を自分の意のままにできる快感を知っていたからだ。
作品名:短編集55(過去作品) 作家名:森本晃次