短編集55(過去作品)
その点、竹を割ったような性格である恭子はしっかりしている。誰かが払おうとすると、
「今度は私が払うからね」
と一言言うだけだった。友達であれば、その一言で足りる。次回にその人が出してくれるというのだから、何の配慮もいらない。暗黙の了解とはまさしくこのことである。
「恭子が男だったら、出世しているかも知れないわね」
と感じた。
後でそのことを恭子と話すと、
「そんなことはないわよ。女性だからいいのよ」
「どうして?」
「男性というのは、これで普通なのよ。だから、却って目立たない。目立つようにするには、さらに何かを考えないといけないのよ。社会に出てから、よく分かったわ」
そう言っていた。さらに、
「旦那もそれなりにしっかりしたところもあったんだけど、でも所詮、社会に出てから海千山千の人たちを相手にするには、まだまだだったのかも知れないわ。私に見抜かれて、動揺するようではきついでしょうね」
――それを何とかしてあげるのが、妻としての役割ではないか――
喉から出掛かっていたセリフを飲み込むと、瑞枝は自分を省みてみた。
しっかりしているように見えても、相手から見れば白々しく見えることもあるだろう。そこに気付かないと、相手が何を考えているか分からない。離婚するには離婚の理由がどこかにあるはずだ。お互い様ではないだろうか。
離婚が悪いというのではないが、もう少し何とかならなかったかという後悔の念に苛まれることもある。
「反省はするが後悔はしたくない」
というポリシーが、時々揺らいでしまう。
しかし後戻りはできない。恭子を見ていて、前向きに生きることを選んだ自分を思い起こしてみた。だからこそ、保険のセールスレディの道を考えたのではなかったか。
数日後に会う約束を恭子と取り付けていた。もちろん、誘いに了解するためである。なかなかスケジュールの都合で予定を組めないほど忙しい恭子だったが、
「やりがいはあるわよ」
というだけに、声のトーンも生き生きしていた。
ゆっくりできるのは今のうちということで、久しぶりに街に出かけて、ショッピングをすることにした。ビジネススーツは持っていたが、カバンや靴なども見ておきたかったからだ。
一日だけということもなく、二、三日ゆっくりと見て回ることもできる。今まで狭かった行動範囲や自分の世界を広げたい気持ちもあったからだ。
文房具店に寄ったのもその時だった。
――手帳くらい持っておかないといけないわ――
と、商店街にある小さな文房具屋に入った。
小さいと思っていたが、実は中の方は広く、しかも奥行きがあった。二階には絵画の道具なども置いていて、三階まである本格的な文房具店である。
奥の方に行くと、手帳コーナーができていて、色とりどりの手帳が置いてあった。手の平サイズのものからA四版のものまでさまざま取り揃えてあった。
色も地味なものからカラフルなものまで、ビジネス用から、カジュアルなものまでいろいろである。だが、いきなり目に留まったのが黒いシンプルな手帳だった。
手に取ってみると大きさも手頃、重くもなく軽くもなく、どちらかというと、少し主ためかも知れない。だが、その方が意識して失くす事はないだろう。特に今の世の中、大切な情報を記してある手帳を失くすことは致命傷である。
「これください」
気がつけばそのままレジで会計を済ませていた。
「もっと他にいろいろな選択肢もあったんじゃない?」
と、自分に言い聞かせてみたが、思い立ったら突っ走るのが自分の性格だと分かっているので、苦笑するしかなかった。
その日、結局いろいろなものを買ったが、一番印象に残ったのは、黒い手帳だった。
数日後、実際に恭子にあって、セールスレディになることを受諾する旨を伝えると、
「そう、その気になってくれたのね。あなたなら、間違った選択ではないと思うわ」
恭子の性格として、自分の思い通りになったからと言って、手放しで喜ぶことはない。絶えず先を見越しているところがある。それだけに、相手の気持ちになって、あまりはしゃいでしまって、相手をミスリードすることはしない。それが恭子のいいところでもあった。
そういう意味でも、恭子のその言葉の裏には、最高の選択をしたと言いたい気持ちが潜んでいると感じた瑞枝だった。
恭子の手はずで、瑞枝は入社後の研修を受けることになった。
実際にセールスレディになりたいという女性は瑞枝が考えていたよりも多かった。
研修は一ヶ月間に応募のあった人に行われるのだが。五、六人と思っていたが、十人近くになっていた。中には恭子に誘われてきた人もいるようで、
「彼女を知っているんですか?」
「ええ、最近離婚してしまったので、そのことを話すと誘ってくれたんです」
同じような立場の人が身近にはたくさんいることを知った。さらに恭子に対していい面とがっかりした面を同時に見ることができた。
いい面というのは、
――世間ってこれほど狭いんだ――
と感じるほど、彼女の顔が広いこと、そしてがっかりした面というのは、
――自分だけに優しいと思っていたけど、それほど甘いものではなかったのね――
と感じることだった。だが、それは勝手に自分が思い込んでいるだけなので、結局はいい面の裏返しであるだけで、許容範囲である。
だが、恭子の誘いで入ってきた人とは、どこか他人のような気がせず、意気投合するところがあった。研修の席も隣あわせ、一生懸命に研修を受けながらも隣が気になり、時々横目で見つめていた。よき意味でのライバルでもあるからだ。
名前を高洲さんといい、気さくそうな性格は、きっとセールスレディに向いているだろう。どちらかというと、愛想笑いの苦手な瑞枝にないものを持っている人のようで、一緒にいるだけで勉強になる部分はたくさんある。
高洲さんも瑞枝には一目置いているようだった。研修が始まる前に話した中で、お互いに意識しあうところがあったとすれば、二人とも、紹介者が同じというところである。恭子の性格を知っている二人なだけに、決して無理だと思う人を誘い入れることはしない。しかもその目がしっかりしているとするならば、相手を気にしないわけにはいかないだろう。
研修が始まって、まず高洲さんが気になったのは、瑞枝の机の上に置かれた手帳だった。数日前に文房具店で買った例の黒い手帳である。
研修の一時間目が終了して、
「女性にしては珍しい手帳をお持ちね」
黒い手帳はほとんど無地で、どう見ても男物の手帳である。ビジネス手帳のように多機能で分厚いものであれば分かるのだが、実にシンプルな機能しかどう見ても持ち合わせていない小さな手帳。不釣合いに見えて当然であろう。
「本当はビジネス手帳などであればいいんでしょうけど、何ていうのかな。最初からいろいろな機能のあるものを持ちたくないという気持ちもあったわね」
これは本音であった。
まだまだ駆け出しの身であるのに、体裁ばかりつけることを瑞枝は極端に嫌う。だから服装も化粧も、セールスレディとして最低限恥ずかしくない程度に収めている。中には派手な化粧をしている人も見かけるが、
――化粧ばかりが目立って、似合っていない――
作品名:短編集55(過去作品) 作家名:森本晃次