短編集55(過去作品)
離婚してから、三ヶ月が経っているということだった。
磯部のところから、彼女が出てきた形になったようだが、さすがに離婚してすぐは、自分なりに反省もあったようだ。
女が一人になった時、一番自分を振り返る時であろうし、今まで一人で生きてきたと思っている女性ほど、自分の中にも依存心があったことを思い知らされる時である。
だが、振り返ってはいけない。
「反省はするが、後悔はしたくない」
というのが、学生時代からの彼女の口癖だった。
話を聞いてみると、離婚して一ヶ月くらいは、鬱状態に陥ったらしい。
「私もね。こんなになるなんて思わなかったわ。一番自分が惨めだった時期かも知れないわ。でも、惨めだと思っている時期って、悪いことしか考えないの。でも、逆に考えれば、これ以上落ちることもないと思ったのね。だから、今があると思うのよ」
声には明らかにメリハリがあって、説得力もある。一言一言を噛み締めるように話しているのは、自信の表れであろうか。
「今、何をしているの?」
「保険のセールスレディをしているの」
と言って、カバンの中から、一冊の黒い手帳を出してきた。
「ここにはいろいろな私だけの情報が載っているの。今の時代に手帳って古くさいと思うかも知れないけど、今だからこそ、自分の手で集めたものを自分の手で書いて覚えておくことがしたかったのね」
その手帳は黒く光っていた。新しい手帳ではあるが、どこか使い古されているようにも思え、まるで宝物に見えた。仕事がなかなか決まらないで悩んでいたが、その手帳を見ることで、自分のセールスレディになってみようと感じたのだ。
離婚した女性が保険のセールスレディになる確率がどれほどのものかは分からないが、瑞枝にとって、そのイメージはかなり高いところにあった。
「私にもできるかしら?」
と、少し不安顔で訊ねると、
「大丈夫よ、あなたならきっと成績もいいかも知れないわね。ずうずうしいくらいの人が本当はこの世界では一番いいのかも知れないけど、あなたはあなたなりの世界を築けると思うの」
「ダメならダメで、また他の仕事を探せばいいんだわ」
もう少しで出掛かってしまうセリフだったが、喉の奥でぐっと堪えた。これを言ってしまえば、一生懸命に働いている人を冒涜することになるので、気まずい雰囲気になってしまうだろう。
彼女とは表から見た立場は同じかも知れないが、離婚の経緯はまったく違っている。だが、一人になりたいと思った気持ちは同じだろう。そして一人になってしまって後悔したことも同じに違いない。その時期が長いか短いか、それだけであった。
恭子の顔は笑顔だった。瑞枝の表情を興味津々で見つめている。リアクションの一つ一つが大袈裟な恭子に対して、なるべく気持ちを表に出さないように心がけている瑞枝が、恭子には興味の対象なのだろう。
「お願いするわ」
「ええ、任せておいて」
二つ返事で返ってきた。まさしく恭子が瑞枝の性格を知り尽くしている証拠である。
恭子から見て瑞枝は、完全に自分の想定内にあった。考えていることが手に取るように分かっていた。また瑞枝から見て恭子は、何でもお見通しで、お釈迦様の手の平の上で遊ばされているような感覚だったに違いない。
だが、今までこの関係が不思議とうまくいっていた。恭子の手の平で弄ばれて、悪い結果が起こったことがなかった。これも孤独を感じることへの恐怖なのかも知れない。
小さい頃、そして成長期が親への依存、さらに、結婚してからは夫への依存。しかし、その途中では恭子がいた。依存心がなかっただけに、まるで見えないオブラートにでも包まれていて、恐怖心を感じることがなかった。見えていれば反発心もあっただろうが、見えないことで、存在に気付いていても、圧迫感を感じないだけに、息苦しさや反発心はなかったのだ。
恭子に任せることがどれだけ自分に安心感を抱かせるか、初めて感じている孤独感の中で出会った偶然が、思い知らせるのだった。
――本当に偶然なのだろうか――
疑いたくなってしまう。
瑞枝と恭子には偶然で片付けられないところがあった。
何か相談事がある時に、必ず目の前にいるのが恭子だった。
姉御肌の恭子は、瑞枝の相談を親身になって聞いてくれた。相談事というのは、聞いてもらえるだけで安心するものである。恭子に相談するようになって、最初は恭子も聞いているだけだった。
だから安心感があるのだ。
最初から相談に対して意見を言われていては、どこか押し付けがましさを感じるのが瑞枝の性格だった。考えがまとまっていないのに意見を言われると、他の人にも聞いてみたくなる。
何人にも相談する。すればするほどたくさんの意見が返ってきて、収拾がつかなくなるのは必然だ。高校時代までの瑞枝がそうだった。いろいろな人に相談して、頭が整理をつけられない。整理をつけられないことが、却ってたくさんの意見を聞いてみたい衝動に駆らせるのだった。
「瑞枝は、意外としっかりしているよ」
恭子に言われたことがある。
「どういうこと?」
「あなたは、人に相談する時っていうのは、きっと自分の中である程度の結論を持って相談してくれているのよね。もっとも自覚症状がどこまであるか分からないけど」
目からウロコが落ちたようだった。確かに自覚症状はないが、言われて考えるとその通りである。瑞枝が最初は聞き役になってくれていたわけが、その時になってやっと分かったのだった。やはり、瑞枝は恭子にとって、想定内の人間であることに間違いはない。目からウロコが安心感に繋がった。
恭子は、気性が荒く、とっつきにくい性格に見られるが、損をしているように思う。いや、その方が彼女にとってはいいのかも知れない。あまり寂しがるところを見せたことがないので、そう感じるのだろうが、そこにこそ彼女のバイタリティの源があるように思えるのだった。
それでも寂しくないわけはない。気丈に見えても時々あらぬ方角を見ている時がある。自分を見つめているのだろうか?
人のことを的確にアドバイスできる人ほど、自分のことが分かっていないと言われる。恭子も人にアドバイスする分、自分を見ていないのかも知れない。
医者の不養生とはよく言ったもので、人のことは分かっても、自分のことはなかなか分からないものだ。
少しそんな恭子に付き合ってみたくなった。どうせ他に仕事もないのだし、研修を受けて、自分のスキルを上げるのは悪いことではない。これから一人で生きていく上での自信に繋がるからだ。
「やる気になったら、ここに連絡して」
と彼女から渡された連絡先を見ながら、考えたものだ。
渡されてすぐ、
「ごめんなさい。これからお客様との約束があるの。いいお返事待っているわ」
と言って、レシートを二つとも持って会計を済ませ出て行った。
こんな時に、
「いいわよ。自分の分は自分で」
などというのは、愚の骨頂。時々レジで誰が払うかでもめているおばさんたちがいるが、
――さっさとすればいいのに――
と昔から思っていた。
自分たちだけの都合しか見えず、他の人の迷惑など考えていないのだ。おばさんたちのおばさんたるゆえんである。
作品名:短編集55(過去作品) 作家名:森本晃次