隆子の三姉妹(後編)
出張だと思っているのなら、あまり帰ってこないと気にするかも知れないと思ったからだ。かといって、電話で話せるような内容ではない。このまま帰っても鬱状態に陥るのなら、却って余計な心配を掛ける。いないならいないで妹たちもそれぞれにいろいろあるだろうから、何も言わない方がいいだろう。もし、言わなければいけないとしても、今はその時期ではないと隆子は思っていた。なぜなら、まだ隆子の中で気持ちの整理がついていないからだった。
隆子がこの街で過ごし始めて、三日が経った。容赦なく降り注ぐ日差しは都会に比べると激しいように思う。しかし、ビルの谷間の狭い道を、まるでアリが行進しているかのように人ごみの中で蠢いていると、必要以上な暑さを感じる。喧騒とした雰囲気は、決して人に優しいものではないのだ。
ずっと都会にいると、そんな当たり前のことまで忘れてしまっていたようだ。
「やっぱりここにいて正解だったわ」
元の生活に戻る時のカルチャーショックが怖くもあったが、中途半端な状態よりもよっぽどマシである。
その日も墓参りをするため、花を手にぶら下げて、小高い丘を登っていくと、墓地の方から線香の香りがしてきた。ここ数日毎日お参りをしていたが、墓地から線香の香りがしてきたことはなかった。
線香の香りは、隆子には特別な思いがあった。
隆子がこの街で死にかけた時、線香の香りがしたような気がした。鼻をついたと言った方が正解かも知れないが、その思いは、さらに子供の頃を思い出させた。
隆子は子供の頃、今では信じられないほど、活発な女の子だった。女の子と遊ぶよりも男の子と遊ぶ方が好きで、さらに家で遊ぶよりも表で遊ぶ方が好きな方だった。
そんな活発な隆子は、結構ケガもしたりした。
あまり握力が強くなったので、他の男の子と同じようにしていては、危ないことも何度かあった。
実際に鉄棒で遊んでいて、背中から落ちたりしたことがあった。その時、数秒間息ができなかった、声を出そうとしても、完全に口パクで、声が出ない。まわりの友達も隆子がどれほどの痛みを感じているかなど分かるはずもなく、人によって表情も様々だった。
その時に感じた痛みは、実際の痛みよりも激しいものだったに違いない。
――まるで石を齧ったかのようだわ――
息ができなかったくせに、鼻だけはよく通った。鼻だけで呼吸をしていると、埃を吸ってしまうからなのだろう、石を齧ったように思ったのはそのせいだったに違いない。
鼻が必要以上に通る時というのは、身体に何らかの痛みを感じる時なのか、あるいは、呼吸ができない時に、息継ぎをしようとした時なのかのどちらかであった。
ただ、この街にいると、最初から鼻がよく通った。それだけ空気が新鮮だということなのだろうが、隆子は、この街にいると、胸を締め付けられる気がしてくることが時々あったが、その理由が、鼻が通りやすくなっているからなのかも知れない。
「まるでパブロフの犬だわ」
それを、条件反射というが、まさしく電光石火のような感情に、この街の空気の濃さを感じることができた。
都会の空気は淀んでいて、淀みのせいで濃い空気が身体を犯してしまうような気になってしまう。
しかし、田舎の空気は新鮮なのだが、それはすべて一種類も新鮮だとは思わない。確かに空気だけを取れば、淀んでいるわけでもなく、純粋さは最高なのだろうが、それだけに、他の香りが通りやすくなってくる。それがいい香りであっても、悪い香りであっても、人に対しては公平だった。
隆子は、ここで様々な花の香りを嗅いだ気がした。特に好きなのは、金木犀の香りであった。
どこから香ってくるのかハッキリとは分からないが、近づいた時から、その周辺全体に甘い香りが漂っている。
甘い香りは金木犀だけではないはずなのに、他の甘い香りすら、金木犀に掛かれば、吸収されてしまうようだ。
それも匂いが混ざって、気持ちが悪くなるような香りではない。金木犀は単独な香りを漂わせているが、時々違う香りがしてくる。それも違和感があるわけではない。元々金木犀の存在を知ることもなく、香りだけを感じているのだ。
金木犀の匂いを思い出していると、墓地が近づいてくるのを感じた。その日も金木犀の香りだけを感じながら、まるで吸い寄せられるかのように近づいていったが、気が付けばそこに線香の香りを感じたのだ。
線香の香りはそれまで無意識に吸い寄せられるように、当たり前のように昇ってきた隆子に、ふとした違和感を感じさせた。
――墓地なのだから、線香の香りがしてくるのは当たり前のはずなのに――
思わず、苦笑いをしていた。
だが、違和感がどこから来るものなのかが分かってくると、自分らしいと感じた。
金木犀の香りは、そこに最初からあるものだ。しかし、線香の香りは必ず誰かの手が存在し、墓前に手向けたことを意味している。
――誰かがいるのか、それとも、ついさっきまで誰かがいたんだ――
と、人が介していることを感じさせた。
ここ数日毎日墓参りに来ているのに、どうして今まで金木犀の香りに気付かなかったのだろう?
金木犀の香りを感じるようになったきっかけが何かあるのではないかと隆子は感じていた。そこに誰かと出会うという発想が芽生えたのは確かだ。だが、それが自分にとっていいことなのか、それとも悪いことなのか、その時の隆子には分からなかった
さらにそれが知っている人なのか知らない人なのか、それもハッキリしない、漠然とした何かが隆子の中にあった。
隆子はいつものようにスケッチブックと鞄をその場に置いた。そして、墓前に座りこみ、交互に二人の墓前に手を合わせる、信二の方の墓前には、いろいろと置かれているにも関わらず、ゆかり先輩の方は寂しいものだった。
――信二さんの方の墓参りなのね――
信二の家族のことは、何も知らない。それは信二に対しても同じことで、何も言わない信二に隆子の方も話す必要はなかった。
金木犀の香りを嗅いでいると、隆子はゆかり先輩と一緒にいた頃のことを思い出した。二人は時々一緒に出掛けていた。快活な性格のゆかり先輩は、社交的でもあったが、それに比べて隆子は、大人になるにつれて快活さが失われていったこともあり、社交的ではなかった。
社交的ではなかったから快活さが失われたと言っても過言ではないだろう、
隆子にとって、ゆかり先輩と出かけるのは嫌いではなかった。元々楽しいことは嫌いではない。ただ、まわりから控えめだと思われていることもあって、自分から動いて快活さな性格だと思われることを隆子は嫌った。
本来の自分の姿ではない自分を、まわりに誤解されることが、隆子にとって一番嫌なことだった。特にそれがいいことであればあるほど嫌なのだ。それは、まわりの期待に応えることができないことを分かっているからで、まわりの期待に応えられないことが、どれほど自分の中で苦痛として残るか分かっているからだ。
それは、隆子自身がまわりに期待しないことにも影響している。
「あの人は、人に頼らず、何でも自分だけでこなそうとするからね」
と、悪い意味で噂されていた。
仕事をしていて、どうしても協調性は必要だ。
作品名:隆子の三姉妹(後編) 作家名:森本晃次