隆子の三姉妹(後編)
信二は死んでしまったということで、、信二がまだ死んでいなかったのを知っているのは限られた人たちだけだった。
どうして信二が死んだことになったのかというと、それは信二が望んだからである。
最初から死ぬつもりで、すべてを整理してしまった信二だったが、心中なので保険も降りない期間だったこともあり、そちらの問題はなかった。
病院では意識はあったが、完全に記憶ではない。むしろ、肝心なところの記憶と意識が曖昧だった。
「俺は、彼女を見た時、死のうという決心が固まったんだ」
と信二は二人の弟たちに話した。
「そんなことってあるのかい? 本当に二人は知り合いじゃないの?」
「ああ、俺が死のうと思っていたところで、彼女と知り合ったんだ。だけど、彼女は俺ほど死にたいとは思っていなかったようなんだ。心中に引き込んだのは、俺の方だったのかも知れないな」
と、言いながら下を向いて考え込んでいる信二だった。
「たぶん、俺はそんなに長くは生きられないと思っている。でも、もう自殺しようとは思わない。死ぬ勇気なんてそう何度も持てるものじゃないさ」
と言っていた。
「それはそうだ」
と、二人は答えたが、死のうとしたこともない二人に、それ以上の確定的な言葉が出てくるはずもない。
裕也がその言葉を聞いて、
「兄は、一緒に死のうとしたほどの女性だったんだ。少なくともその時、本当に好きになれる相手を見つけたと思ったんじゃないか」
と感じた。
「俺は、もし死のうなどと思わなければ、彼女を幸せにできたかも知れないなんて考えることもあるんだ。死を意識したから、そんなことを思えるんじゃないかな? 覚悟のようなものだけどね」
と、信二が言っていた。
幸せと死とは背中合わせ、それは天国と地獄も背中合わせと言葉を変えることができるのではないだろうか。
「どっちに転ぶか分からない。だから人生は面白い」
どこかの自己啓発の本にでも載っていそうな言葉だが、その時は自然と頭の中に浮かんできた。
隆二はそんなことを感じていた裕也とは違い、漠然と聞いていた。まるで他人事のような気分だ。いくら兄とはいえ、自分が体験したわけでもないことを、相手の言葉だけで想像するなどできっこないからだ。
自分が冷静なのは分かっている。冷静というよりも、冷徹なのかも知れない。あくまでも中心は自分なのだ。
だが、隆二はこの時から、少しずつ変わって行った。
冷徹で冷静なのは、
――あくまでも自分が中心。自分さえよければいいんだ――
という発想の元の冷徹さで、そんな自分に少なからずのジレンマを抱いていたのが分かっていた。
だが、この時兄の病床で、裕也と二人で兄の話を聞いた時に感じた何か、それをしばらく忘れていた。記憶を、意識して封印していたのだ。
忘れなければいけないほどの大きなものだった。それは裕也も同じだったのかも知れない。
だが、記憶を封印するというのは、思い出したくないことを封印するものだが、それは無意識の元に封印されるものであって、この時は意識的に封印した。ということは、いずれその時が来れば思い出すというような類のもので、その時というのを静かに待っている自分をいつの間にか感じるようになっていた。
封印したということは確かに思い出した。しかし、それがどういうことだったのかということを感じるまでに近づいてきたことを意識していた。「その時」は遠くない将来だということである。
ここで、洋子たち三姉妹と、隆二たち三兄弟が揃う予感があった。今は時間と空間の悪戯なのか、それとも人間の本能から出会うことを拒否しているのか出会っているわけではない。それはまだ「その時」ではないからなのではないだろうか。
隆二は、信二の墓前でお参りしていると、病院での三人の会話がよみがえってきた。それは裕也も同じだったのかも知れない。
さっきまで裕也は由美をずっと意識していたはずなのに、隆二と洋子に出会った時から、隆二を意識するようになった。その意識というのは、どこか自分の気持ちをけん制しているようで、
――兄さん、俺の気持ちを分かってくれよ――
とでも言っているかのようだった。
だが、隆二にもすぐには、その視線の意味を分からなかった。自分を意識して見ているのは分かっていたが、何を言いたいのかまで分かるほど、その状況に隆二は入り込むことができなかった。
隆二は、その場面にふさわしい自分を頭に描くようにしている。そして、その場面にふさわしい自分が現れると、その時に自分が感じることは、ほぼ間違っていないと思うようになっていた。その場にふさわしい自分を思い描くことはなかなか難しいが、できてしまうと、そこから先は自分に自信を持っていいことを証明されたことだと思うのだった。
そして、洋子たち三姉妹にも自分たち三兄弟と同じことが言えるのではないかと思っている。それを握っているカギは、今は死んでしまったゆかりなのかも知れない、そうなると今のキーパーソンは、隆子であり由美である。ただ、今は二人の間にかなりの距離があるので、その距離を埋めないと、どうすることもできない。その距離を埋めることができる人がいるとすれば、洋子しかいないだろう。洋子は明らかに隆二に近い、近いだけに結界が設けられていて、それ以上先に進むことができないこともあるが、きっかけが何であるかくらいは分かるというものだ。
そしてそのことを一番分かっているのが洋子ではないだろうか。洋子だけがゆかりを知らない。客観的に見ることができるのは洋子だけだ。
しかし、隆子も由美も、ゆかりを崇拝しているところがある。何も知らない洋子は口を挟むことはできないだろう。
――何を言っても他人事――
と言って、片づけられるのがオチである。
隆二はまずは自分たちがあの日、兄の病床の脇で、どのような話をして、何を感じたのかを思い出そうとしていた。
その時、兄の心はゆかりに向いていたかも知れない。
だが、確かに自分たち兄弟の顔を正面から見て話をしてくれた。
――いや、最初は俺や裕也が一方的に話をしていたような気がするな――
それは、兄の深刻な顔を見たくない一心から、自分たちで少しでも気分転換になればと思い、心中に対して触れることもなく、今の自分たちの現状や、考えていること、あるいは、過去に何を考えていたかなど、そんな話をしていたような気がする。
その思いが功を奏したのか、深刻な話にはならなかった。だが、決して浅い話ではなかった。本当ならもっと以前からこんな話をしておけばよかったと思えるほど、自分たちの気持ちに正直になれた瞬間であった。
三兄弟は時間を感じることもなく話をしていたに違いない。時々笑った記憶もある。それも心の底からの笑いだった。それこそ、何年ぶりに心の底から笑ったのだろう。そんなことを思わせる瞬間でもあった。
隆二は、信二が寝ている傍らで、裕也の話を交えながら、信二と話をしていた。それを聞きながら裕也もしきりに頷いている。それを横目で見ていると、裕也の気持ちも自分と似たところがあることを確信した。
作品名:隆子の三姉妹(後編) 作家名:森本晃次