隆子の三姉妹(後編)
「墓参りは終わったかい?」
これは正面の兄である隆二に声を掛けたものだったが、こちらもさっきまであれだけ真っ青な表情だった隆二の顔色は復活していて、
「ああ、終わったよ。兄さん、お前が来るのを待っていたって言っているよ」
「そっか、俺もかなり墓参りに来ていなかったからな。兄さん怒ってたかい?」
「そんなことはないさ。兄さんはお前に感謝こそすれ、怒ったりなんかしないさ。信二兄さんが入院している時、毎日のようにお参りに来てくれていたことを喜んでいたからな」
それを聞くと、裕也は下を向いて黙り込んだ。
「俺は、信二兄さんを裏切ったような感覚なんだよ」
「そんなことはない。俺もある程度は知っているつもりだ。お前が裏切ったなんてことを思いこむ必要はないんだ」
と隆二は、裕也を窘めていた。
その間、由美と洋子は、完全に固まっていた。まるでさっきの裕也と隆二のように、女性二人の会話の間のようだ。
そう、この場所では、二組の男女のカップルがいるはずなのに、別の世界として、兄弟同士、姉妹同士の関係が存在していた。四人いる世界の中に単独で二人ずつの世界が存在するという、実に不可解な世界である。
裕也の言う「裏切り」という意味を、死んだ信二が知っているのだとしても、それは仕方がないと思ったが、なぜ隆二までが知っているというのか、裕也には不思議だった。
裕也は、信二が心中を図ったということを聞いた時、正直、兄弟として恥かしいと思った。
「自殺なんて、気持ちは分からなくないが、やっぱりいけないことなんだと思うよ。もっと他に何かあるはずだからね」
と言っていたのが、他ならぬ信二だったからだ。
それは兄としての弟たちに対しての教訓であり、まさか自分にそんな立場がやってくるなど考えもしない一種の他人事のように思っていたのかも知れない。
それなのに、そう言っていた本人が自殺、しかも心中という最悪の中でもさらに最悪な形で死のうとしたなど、考えられなかったからだ。
隆子は、ゆかり先輩と心中を図った男性の方は即死だったと聞かされていたが、実際には同じ病院にしばらくは一緒にいたのだ。
信二の方はしばらくして死んでしまったが、ほぼ時を同じくしてゆかり先輩の方の記憶が欠落していることが分かった。
それまでは、意識不明な状態から、意識が戻って、身体の方はある程度回復していたのだが、精神的なところでは何とも言えない状態だった。要するにどっちに転ぶか分からない状態であり、結果としては、記憶の欠落はあったが、最悪な状況は逃れられたようだった。
その時、兄の様子を見に毎日のように病院に通っていたのが裕也だった。
信二は、寝たきりだったが、意識はある程度ハッキリとしていた。まさかそれから一月もしない間に亡くなってしまうなど、ありえないほどの状態だったのだ。
「兄が急変したのは、俺の責任なんだ」
裕也が自分を責めた理由は、裕也の心の中に、ゆかりが入り込んでしまったことだった。裕也がゆかりに興味を持ったのは、
「兄はどんな女性と心中しようと思ったのだろう?」
と感じたことだ。
裕也は絶対に、兄が女に騙されて一緒に死ぬことを強要されたと思っていた。強要されたわけではなくとも、どこかに武器を隠し持っているのだと確信していたので、
「一体、どんな女なんだ?」
と思ったのも当然だ。
女に対してあまり免疫をその時の裕也は持っていなかった。さぞや化粧の濃い、元々の顔をそこから想像もできないような女性であると思っていた。
それなのに……。
車椅子で移動する痛々しいゆかりを、同い年くらいの女性が付き添っていた。
表情はハッキリとしていなかった。虚ろな表情は哀れさを誘ったが、
「騙されないぞ」
とばかりに睨みつけた裕也に対し、ゆかりの表情は、ニッコリと笑顔を向けた。その表情に一切の曇りは感じられずに、裕也の中で戸惑いだけを残してしまった。
――そんな――
今までの自分の考えを根底から覆さないといけない気持ちにさせられた。こんな思いは今までに一度もなかったことだった。それだけに裕也の戸惑いは消えることはなかった。消えるどころか、ゆかりに対しての気持ちが新たに生まれてくるのを感じた。それまで女性を好きになったことのない裕也が、初めて好きになったのだという意識を感じさせられた瞬間だった。
それがまさか兄に対しての裏切りになるなど、考えもしなかった。それだけ兄に対しての気持ちと、ゆかりに対しての気持ちとは違うものだと感じていた。
それは自分への言い訳だったに違いないが、好きになってしまった感情を抑えることはできない。
「抑えられない感情があるなら、それがお前の真実だ」
という話をしてくれたのは、信二兄さんだった。
その兄が心中を試みたということは、突き詰めると、俺たちに対しての裏切りになるのかも知れないと感じたが、その時の信二兄さんにそこまで感じる方が罪だという気持ちになっていた。
信二兄さんと話をしていると、それまで悩んでいたことを一言で解決してくれるほどのオーラを感じることができた。そんな人が何を思って心中など試みたのか想像もできなかった。
死のうとしている人を止めるなら分からなくもない。しかし、一緒になって死のうとするなんて……。
だが、逆に兄さんらしいとも言えるのではないだろうか。優しすぎるというべきなのか、それとも、感受性が強すぎるのか。後者は考えにくい。感受性が強いというよりも、自分の意志をしっかり持っているのが、兄さんだったはずだ。裕也はそんな兄を誇らしいと思っていたのに、心中をしてしまった兄さんは、その瞬間、裕也の想定を逸脱してしまっていた。
裕也は、病院をウロウロしているうちに、自分が病気でもないのに病気になったかのような気がしてくるタイプだった。熱もないのに、頭がボーっとしてくる。思考回路がマヒしてくる要因は、元々の自分の性格にもあったのだ。
病院に毎日のように通っていると、裕也は何が目的だったのかを忘れてしまっていた。兄の病室を訪れた後、ゆかりの部屋を訪れる、ゆかりと兄がどうして心中をしようとしたのか分からないが、一緒にいるだけが、生きている証拠に思えてならなくなっていた。
生きていることについての意義など考えたこともなかったのに、ゆかりを見ていると、生きていることの意義を教えられそうな気がしてきた。
裕也は、ゆかりの病室にも顔を出すようになった。自分が信二の弟だということを話すべきか迷っているうちに、次第に言いそびれてしまい、結局言えずじまいだったが、これも兄に対しての「裏切り」の一つになってしまった。
「時間が経ってしまえばしまうほど、話しにくくなることもあるんだ」
という意識を思い知らされた気がした。
兄に対しての裏切りが、裕也にとっていくつあるのか分からない。少しずつ増えて行っているようにも見えているが、原因はたった一つである。逆にいえば、一つが解決すればすべてが解決することに繋がるのかも知れない。ただ、最初は一つでも放射状に広がてってしまったことであれば、そう簡単なものではないだろう。
作品名:隆子の三姉妹(後編) 作家名:森本晃次