隆子の三姉妹(後編)
と思ったが、線香というのは、火が消えてからの方が煙となることで匂いが残る。それなのに線香の香りを感じなくなったということは、金木犀の匂いが、線香の香りに押し切られたということであろうか。
金木犀の甘い香りを今までに、しつこいと感じたことはない。それはどこからともなく漂ってくるからで、その時のように、線香の香りを打ち消すほどに強い匂いを嗅いだことがないからだ。
金木犀の香りとは記さずに「匂い」としたのは、そのせいであった。
どんなにいい香りであっても、他の匂いを打ち消すような、しかも、その場に一番ふさわしい匂いを打ち消すような匂いであれば、しつこいと感じても仕方がないだろう。ただ、この匂いが、
「近くに洋子姉さんがいる」
と感じさせた理由の一つであったのも否めなかった。
その時、洋子はまさか由美もこの場所にいるということを知る由もなかった。そう、あくまでも、
「由美も……」
という意識である。
この街にもすっかり慣れている隆子は、墓参りとデッサンを繰り返しながらの毎日にある程度満足していたが、どうしてもゆかり先輩が何を思って死を選んだのかという、永遠に分かるはずもないことを隆子は頭に思い描いている。
永遠に分からない謎を持ったまま生活しているのは洋子も同じだった。
元カレが洋子に何かを言おうとしていたことは事実だったように思えてならない洋子は、永遠の謎として自分が死ぬまで分かりっこない謎を心に秘めている。誰にも悟られないように細心の注意を払いながらである。
そんな洋子を見ていて、隆二は洋子が何を考えているか分からないというイメージを決定的なものにした。洋子の気持ちは本人にしか分からない。その人が隠そうとすればするほど表に出てしまう人もいるが、洋子に関してはそんなことはなかった。
内に籠ろうとする相手を今までに何人も見てきたつもりの隆二である。しかも、肉親である兄を亡くしたという意味では、好きだった人を失った洋子と同じではないだろうか。
ただ、肉親という言葉がどれほどの重みを持っているのか、隆二は少し疑問を感じていた。それは、由美が自分たちと兄妹であるということ知ってからだった。
特にその思いを今切実に感じているのが裕也だと思うと、忍びない気分にさせられてしまう。
兄がそこまで感じてくれているということを知らない裕也は、姉弟としての自分と、由美のことを好きになってしまった自分の中で葛藤が起こっていた。
――兄たちに相談できることではない――
言ったら、まず血の繋がりを切々と説明され、当たり前のことしか言われないと思ったからである。こんな時に肉親から言われる正当なことというのは、聞く方にとっては、ウザく感じられて仕方がない。
――言わなければよかった――
と感じるのがオチである。
洋子は、隆二がどんなに考えても自分の気持ちの奥深くまでは入り込めないことを分かっていた。もし、洋子の気持ちを分かるとすれば、それは隆子しかいないと思っていた。しかも、隆子はそんなことはしない。ああ見えても必要以上のことをしないのは、三姉妹の中では隆子が一番だった。
現実的だというべきだろうか。本当は、洋子の方がよほど現実的に見えるが、それは洋子が静かだからであって、実際には不器用な洋子に、現実的な考えはできるはずもない。現実的な考えができる人は、現実的なことを実現できる人である。その点に対して、まったく自信のない洋子に、現実的なところを求めるのは無理というものである。
隆子は、洋子を見ていて、すぐに自分と同じように大切な人を亡くしたのだということが分かった。不器用な洋子は、隠し事にも「不器用」なのだ。
だが、隆子はそのことに触れようとしない。それは洋子が自分に対して感じている優位性が邪魔をするからだ。もし特別なことをしてしまってせっかくうまくいっている関係を崩す必要もない。必要以上のことはしない隆子にとって、それは必然の行動であった。
洋子は、神妙に好きだった人の墓参りを済ませた。ひょっとすると、もう自分が彼の墓参りをすることはないと思っているからなのかも知れない。自分にとって彼を吹っ切ることは絶対に必要なことで、隆二と知り合ったことで吹っ切れるようになれるかどうかが、洋子にとってのカギであった。
最初はきっかけという意識だけだった。別に好きになるつもりもなかったし、友達の延長くらいでよかった。それなのに、まるでそれを見越したかのような彼の態度に、最初の頃は忌々しささえ感じられた。
――地団駄を踏みたくなるというのは、こういうことを言うのかも知れない――
きっかけだけのつもりが好きになってしまった自分に対しての気持ちである。この時自分が恋愛に対して不器用だということを思い知らされた。本当は、どうせ恋愛をするなら、主導権は自分が握りたいと思っていた。それなのに、好きになってしまったことで、やきもきさせられるのはいつも洋子の方だった。
そのうちに、いつの間にかホテルで彼に抱かれていた。それも、ごく自然にであった。
男性に抱かれる時くらい、自分の中でどのような気持ちになって、そしてどのようなシチュエーションで抱かれることになるかなど、ある程度想像を膨らませるものだと思っていた。それが恋愛の醍醐味だからである。
それがあれよあれよという間に彼のペースに乗せられて、気が付けば、彼の手の平の上で踊らされていたかのように、何も考える隙すら与えられなかったのである。これは彼なりに気を遣ってくれたからなのだろうが、洋子にしてみれば、
――女としての屈辱――
であった。自分のことを、
「不器用だ」
と言いたくなるのも無理もないことだろう。
元々忘れなければいけないと思っている彼がいなければ、こんな屈辱を味わうようなこともなかっただろう。
ひょっとして洋子が男性に対して不器用になったのは、最初に付き合った人が、もうすでにこの世にいないことが影響しているのかも知れない。
彼のことも最初から好きだったわけではなかったはずで、
「彼のどこが好きだったの?」
と聞かれても、何と答えていいのか分からないだろう。
――本当に好きだったのだろうか?
とも思えてきた。
それを確かめるすべはもうない。彼が生きていたとしても、果たして確かめることができたかどうかも怪しいものだが、本当にいなくなってしまったのだから、永遠の謎となってしまった。
永遠の謎という言葉が洋子に重くのしかかる。不器用だというレッテルを甘んじて自分で貼らなければならなくなったことに、彼への皮肉を一言でも言いたくなる。墓参りに赴いた時、そのことを感じた。
「本当に好きだったんだよね?」
と返ってくるはずのない質問を物言わぬ墓石に語り掛けた。まわりは暑さと湿気でムンムンしているのに、墓石だけは冷たく乾いた状態でそこに佇んでいる。
そこには金木犀の香りは漂ってこない。漂っているのは、線香の匂いだけだ。線香の匂いは鼻をつく。だが、嫌いな匂いではなかった。
あれはいつ頃のことだっただろうか? 母に連れられて、家族で墓参りに行ったことがあった。洋子が小学三年生、まだ家族と一緒にいることに何ら違和感のなかった頃だ。
作品名:隆子の三姉妹(後編) 作家名:森本晃次