短編集54(過去作品)
子供心だからというのもあるが、タバコを吸っている大人を見ると、どこかタバコに逃げているという感覚が強い。タバコを吸っている父親の姿はいつも顔をしかめていて、とても好きなものを口にしているという姿ではなかった。
だが、表でタバコを吸っている人は、ただ口に咥えている人の姿が目立つのはなぜだったのだろう。おいしそうというわけではないのだが、恰好つけるためにタバコを口にしているように見えて、
「バカじゃないのか」
と嘲笑いたい気分になってくる。見ていて情けないの一言だった。
どちらも両極端なのだろうが、吸っている人間よりもそれを見ている人間の方が余計な気を遣っている。そんな自分がいたたまれなくなってしまうことがあった。
孝也はそこまで考えなかった。あくまで、表で吸っている人を敬遠したい程度で、父親に対しても、しがないと言っていながら、しかめ面はしているが、何かを考えている姿を見れることに悪い気はなかった。
だが、そんな父親も母親の鶴の一声でやめてしまった。
実際にどこかで吸ってるということもなく。完全にやめてしまったようだ。
それからの父親というのは、どこか変わってしまった。どちらかというと、兄に似てきたように思う。
いつも一人でいることが多く、なぜか一人でいても違和感がない。
――一人が似合っているかも知れない――
と孝也には見えた。
家で家族と話をすることがめっきりと減ってしまった。帰りが次第に遅くなる。
「今日は仕事が忙しかった」
たまに一言呟くが、ほとんどは外食をしてくるためか、母親もそのうちに食事を作らなくなった。帰ってきて、風呂に入って寝るだけである。風呂の時間も次第に短くなってくる。酒が入っているわけではないのに、どこか家では上の空な状態が続いていた。それを誰も追及する人はいなかった。
父親は、どうやら不倫をしていたようだ。
孝也も高校生になっていて、子供二人にそれほど手が掛からなくなっていた。むしろ、兄の賢三が大学受験という大切な時期だったこともあって、気を遣わなければいけなかったので、父親の帰りが遅いのはある意味怪我の功名でもあった。
しかも賢三は普段から一人でいることが多い性格だったので、変な気を遣わなくても普段どおりでよかったのだ。それでも母親だけは、肩に余計な力が入っているのが分かっていて、少しぎこちない感じだった。
父親の不倫と言っても、家庭を壊すようなものではなかった。
母親が父親の不倫を知っていたかどうかは定かではないが、孝也だけは知っていた。
部活でいつも帰りは真っ暗になってからだが、時々父親が若い女性を連れて料理屋から出てくるのを見かけていた。
一度や二度ではなく、いつも同じ女性であった。最初はそれほど気にしていなかったが、ある日後をつけてみると、マンションに入っていく。どうやらその女性の部屋に入り込んでいるようだった。
それ以上詮索はしなかったが、まさか息子につけられたとは思ってもいないだろう父親の秘密を握ったことに最初は興奮を感じたが、考えてみれば、それをバラすということのリスクを考えれば、下手に見てしまったことで、自分の中だけで抱え込んでおかなければならなくなったことを恨みもした。だが、慣れてくればそれはそれで別段大したことではない。
父親の浮気について知っていたのは、孝也だけだった。母親は何も知らなかっただろう。
孝也は勘が鋭いところがあり、そのおかげであろうか、家族の中で一番何でも知っていた。父親の不倫にしてもそうだったが、知っているのは悪いことだけではなかった。
それだけに苦しいこともあった。特に父親の不倫については、最初は悩んだりした。
――話した方がいいのかな――
自分の胸の内に秘めておくほど、事態は小さなものではない。だが、話をしてしまえば修羅場と化してしまうかも知れない。
母親はそれほど自分を見失ってしまうタイプの人ではないと思うが、相手があること。
――売り言葉に買い言葉――
一歩間違えれば罵りあいになってしまう。
母親はしたたかなところもあった。結構理屈も分かっている人だ。逆に分かっているだけに理不尽なことがあれば、それに対して激高してしまうことだってないとは限らない。孝也はそれが恐ろしかったのだ。
父親は、素直なところが長所であるが、理屈っぽくはない。責められればきっと言い訳はストレートになるに違いない。
ストレートな言い訳が、母親に通じると思えない。ストレートに言い訳されればされるほど、冷静になってくるだろう。
――こんな人だったのね――
冷めた気持ちになってくるはずだ。冷めた気持ちになってしまえば、その時点で形勢は見えてくる。どんな言い訳をしても、母親にはすべて見透かされてしまい、まるでお釈迦様の手の平の上で踊らされている孫悟空を想像してしまう。
――俺って母親に似たのかな――
孝也は冷静に分析できる自分を顧みて、母親の遺伝であることを再確認していたが、決して長所だとは思わなかった。
――知らなくてもいいのに――
知りすぎるというのは、自分を苦しめることになることを身に沁みて分かった。
賢三の性格についてもよく分かっていた。
潔癖症で、曲がったことの嫌いな賢三の性格は、間違いなく長所であろう。だが、それは短所でもある。
――長所と短所は紙一重――
と言われる。
中学で野球をしていた孝也にはそのことはよく分かっていた。
特にバッティングで言われることだが、
――好きなコースの近くに苦手なコースがある――
これはピッチャーの立場からもバッターの立場からも言えることだ。ピッチャーを少しの間だがやっていた孝也は、コーチから言われていた。
「相手の得意そうに見えるコースの中にこそ、ウイークポイントがある。本当はそこをつけるのがいい投手の条件なんだがな」
相手の構えを見て、瞬時に見抜くのは難しいが、ストライク三つに、ボールが四つ、少なくとも一打席にこれだけ投げることができる。コントロールには一応の自信があった孝也だったので、コーチもそんな話をしたのだろう。
しかし、コントロールを重視すれば、球威がおろそかになる。確かにコントロールがいいことは武器にはなるが、孝也の目指すものは違っていた。
――球威で相手を威嚇する――
三振を目指すのが投手としての醍醐味である。それだけの力も自負していた孝也にとって、
「制球力か、球威か」
と聞かれれば、
「俺は球威だ」
と答えるだろう。それでこそ野球をやっている気概があるのだし、力があるのであれば、そこを目指すのが、男というものだと思っている。
相手に気後れしてはスポーツはできないとも考える。
「まずは自分に勝つことだ」
と監督やコーチは言っていたが、自分に勝つことは相手に勝つことよりも難しく、相手に勝ったという自負があってこそ、自分にも勝てるのだと思っている。そのことは監督やコーチも分かっているのだろう。分かっていて選手にハッパを掛けているに違いない。
兄の賢三はスポーツをしていなかった。いつも一人でいて、勉強ばかりしていた。
作品名:短編集54(過去作品) 作家名:森本晃次