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短編集54(過去作品)

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見つめる影



                 見つめる影



 エレベーターから降りて、いつものように自動ドアを抜けると、通勤通学の人たちがいつものように急ぎ足で駆け抜けている。ここ数日急に寒さが強まったせいで、コートにマフラーと、完全に真冬の恰好の人も珍しくない。
 背中を丸めてコートの襟を立てて歩く姿は、見ているだけで寒気を誘う。一日の中で一番嫌な時間帯だ。
 孝也は、玄関からの扉が開いて出て行く男の背中を追いかけている。男は他の人と同じようにコートを羽織って、さらにマフラーを巻いている。マフラーは無造作に首に巻きつけているだけなのでダランとぶら下がっているだけだ。寒さのための条件反射で前のめりに歩いているので、ぶら下がっているマフラーの両端が、だらしなくなっていることは見なくても想像がつく。
 孝也は前に回りこむことはできない。許されないというべきか、必ず、彼の後ろを行かなければならない。そんな宿命を背負っているのだ。
 男は、そんな孝也を意識することなく、開いた自動ドアの向こうで立ち止まった。自分の身なりを整えて、寒くないようにしているのだ。
 男の名前は賢三といい、どこにでもいるようなサラリーマンである。賢三の背中の向こうに見える朝日に光った道を眩しいと思いながら見ているが、きっと表は暖かいだろうとしか思えなかった。
 賢三が入り口を越えたところで立ち止まっているのは、孝也の思いとは裏腹に、想像以上に寒いからだろう。歩き始めるには、それなりの心構えがいるということである。だが、その思いは孝也にはやはり分からなかった。
 意を決したかのように賢三は歩き始めた。
 表を歩く人は一様に寒そうな格好で、背中を丸めて早歩きをしている。
 手袋をしている人以外は、皆手をコートのポケットに入れている。
――あれじゃ、却って怪我をするよな――
 孝也は、見ていてそう感じた。
 所詮は他人事である。だが、自分も寒がりなのは分かっているので、気持ちは分からなくもない。賢三も同じく寒がりである。歩き始めるまでの「覚悟」がそれを表わしているではないか。
 賢三は、来年結婚予定で、このマンションに新居を構えた。仕事場までは、実家から比べれば少し遠くなったが、それでも、実家にいるよりも精神的に違っている。
 駅まで歩いて十五分。これは最初に考えていた歩ける距離としては最長距離だった。歩くことにそれほど苦痛を感じない賢三だったが、毎日のこととなると、最初の感覚とはかなり違ってくる。そのことを最初に考えることができるのも、賢三の性格だった。
 堅実な性格であった。だが、時々物忘れをしてしまうことが気になっていた。物忘れすることが多くなったことで、余計に堅実な性格が強くなったのかも知れない。それは賢三自身が一番感じていることだろう。
 駅までの十五分の間に考えることは結構たくさんある。賢三は、普段絶えず何かを考えている性格であった。それは見ていて分かる。上の空の時が多く、それを人から咎められても、
「えっ、ごめん、聞いてなかった」
 決して何かを考えていたとは言わないが、何かを考えていなければここまで上の空になってしまうなどないことである。
 一人でいる時はなおさらのことで、歩いている時など、下を向いて歩くくせがついているが、かなり遠い角であっても、気がつけばすぐに角まで来ていたなどということは日常茶飯事であった。
 それでは一体何をそんなに考えているのだろう?
 その時々で違っているが、大抵は子供の頃のことである。嫌な思い出はなるべく思い出さないようにしようという思いは誰もが持っているだろうが、賢三の場合は、他の人の気持ちよりも強い。
 実家を離れたいとずっと思っていて、そのきっかけがなかった。
「大人なんだから、思い立ったら出てきてしまえばいいじゃないか」
 と他人は言うに決まっているが、賢三は両親に対して、そんないい加減な態度を取ることができない。
 気が小さいといえばそれまでだが、それだけではない。今まで育ててくれたことへの思いが一番強く、何かのきっかけでもなければ、家から出てくることはできなかった。そんな賢三の思いを知っている人がどれだけいるだろう。まわりからはただ気が小さいだけとしか見られない性格は、確実に損をしている。
 駅までの十五分、本人は十分くらいの感覚である。考えごとをしているからだろうが、最初の半分に比べて、後半の半分が相当時間的に短く感じるからだった。
 途中、大通りに出るが、マンションから駅までのちょうど中間に当たるのが、大通りに出る角を曲がるところであった。
 大通りに出れば景色が一変する。それまで人通りは多いが、あまり車も通らないほどの小さな路地である。大通りに出てしまえば、道の向こうが遥か遠くに見えて、まるで大きな川を挟んだ向こう岸のようだった。
 川に対しては、賢三は格別な思いがある。
 子供の頃に川で遊ぶことを禁止されていた。近くには大きな川が流れていて、その向こう岸には大きなケミカル工場があった。歩いていても、風向きによって、臭い匂いが漂ってくる。朝はそれほどでもないが、夕方の下校時間になると、まともに工場の悪臭が漂ってくる。
 学校側は工場に抗議を申し立て続けているらしいが、一向に相手をしてくれない。大人になってみればそれも当然と感じるが、子供には分からない。何となくおかしな理屈だと思いながらも、大人の世界のことを分からない子供が出る幕ではないと割り切っていた。賢三やまわりの友達は、「もの分かりのいい」、そんな少年グループだった。
 工場の隣にはグラウンドがあった。
 近くの高校が使用していた野球専用のグラウンドで、ナイター設備も完備した立派な施設だった。高校野球では名門校で、甲子園にも何度も出場していた。少なくとも県大会の決勝戦まではいつも出場していて、甲子園出場は、当然の義務とまで言われていたほどだった。
 小学校卒業前くらいになると、そのあたりの理屈が分かってきた。毎日ナイター照明を使っての練習は大変であろう。好きなことをやっているんだから、楽しそうだと思っていたのも、遠くから見ていたからである。工場が近くにあることもあって、小学生の頃には川向こうに行くことはまずなかったからだ。
 工場も時代とともに、環境問題の煽りを食ったのか、それとも不景気が功を奏したのか、煙突から絶え間なく噴出していた煙が次第に少なくなってきた。時間帯によっては、まったく噴出さない時間帯があったり、夕方もまだ西日が眩しくなる前から煙突の煙がなくなってしまっていた。
 それまで西日は煙突の煙のせいであまり気にならなかったが、煙がなくなると、まともに当たるようになった。
「西日ってこんなに明るかったんだ」
 中学に入って初めて感じるようになるなど、誰が想像しただろう。それまでの時間が一体何だったのかと思わせられた。
 賢三は、いつも一人だった。
作品名:短編集54(過去作品) 作家名:森本晃次