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短編集54(過去作品)

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 母親も無口な方で、父親の決めたことを絶対だと思っている人である。お互いに相手を尊重しあっているのか、それとも肝心なことには押し黙ってしまっているのか、部屋に閉じこもりたくなる子供心、今さらながら思い出すと健気に感じた。
 酔っ払いの顔を見ていると、父親に見えなくもない。
――いやいや、そんなことは絶対にありえない――
 そう思うとそれまで父親に見えていた顔がみるみる変わってきた。
――先生かな――
 と思って見つめると、今度は担任の先生に見えてきて、これならよほど想像がつく姿である。いつも教壇の上で、冗談を言いながら教鞭を取っている先生ならばこそ、想像がつく姿だった。
 だが、想像した瞬間だった。急にそれまで酔っ払っていた男の背筋が直立不動になったかと思うと、緩んだ表情が一気に引き締まっていって、見たことのある顔に変わってくる。
――お父さんだ――
 眉間にしわを寄せて、唇を真一文字に結び、想像できる唯一の表情になったかと思うと、まっすぐに前だけしか見ずに歩き始めた。横にいる子供の存在などまったく分からないようだ。気付かないフリではなく、完全に見えていないのは、前しか見ない父親なればこそだった。
 横顔から後姿が見える。後姿は知っている父親のものよりもはるかに小さなものだった。本当に父親なのか、疑いたくなっていた。
 小さく見えるのは、何か自分に自信がないように感じられるからだ。いつも自信に満ち溢れていて、妥協を許さない頑固さは意見が違うとはいえ、尊敬すべきところなのだろう。大きくなるにつれて、気がつけば自分も妥協を許さないタイプになっていると人から聞かされて、ドキッとしたことがあった。
 みすぼらしくも見える父親の手に、いつの間にかお土産の寿司折りが握られていた。今までにお土産はおろか、酒に酔って帰ってくる父親など見たこともなかった。それなのに、これはやはり夢の成せる業なのだろうか。
 足元がおぼつかなく、完全な千鳥足だ。だが、みすぼらしく見えている父親の背中はどこか楽しそうである。
 楽しそうな父親の姿も見た記憶がない。会社でもきっと眉間にしわを寄せて、部下に睨みを利かせているに違いないと思っていた父親である。考えてみれば会社から家までの間は一人なのだ。一人の時にひょっとして自分の姿を見せているのではないかと思うのはおかしなことであろうか。
 今目の前にいる父親が、武にとってはこれから目指す父親像であった。みすぼらしいが、どこか楽しそうな雰囲気で、あのまま家に帰ってくればどのような気がするだろう。
 普通であれば、
「情けない父親だ」
 と一瞥するであろうが、育った環境が違うとこれほど違った目になるのかと感じるほどであった。
 ダメな人間をテーマにしたアニメが再放送されていたのを見たことがある。主人公はあまりにも惨めだった。皆からダメ人間のレッテルを貼られ、家族からは拷問のような仕打ちを受けても、甘んじて受け入れている男。見ているだけでも胸焼けがしてきそうな内容なのに、チャンネルを変えることができなかった。
 すでに主人公しか見えていない。まわりの家族や上司など、苛める側の人間の心理などどうでもよかった。
 ただ、
――どうして逆らわないんだ――
 とイライラが募ってくるばかりだったはずなのに、いつの間にか応援している自分に気付く。
 日本人は「判官びいき」だと言われているが、弱い者や敗者への暖かい目を持っている。一つの人類学的な文化なのだろうが、このアニメは「判官びいき」ともまた違っている。
 きっと、最初に見た人の半分は、嫌になってすぐに見るのをやめたのではないかと武は思う。自分も、
――どうして見るのをやめなかったのだろう――
 と不思議に思うほどで、それはきっと育った環境の違いからだと気付いたのは、かなり後になってからのことだった。
 結局、放送終了まで見てしまったのだが、最後には家族に受け入れられる男になっていた。そればかりか、普段は苛められているだけの男なのに、実際には教養が深く、雑学やウンチク、さらには情けの深さまで分かっていた。
 どこで勉強したのかはアニメの中では触れていないが、却って触れていない方がいい場面であった。
 ダメな男が人に認められるようになると、本当は教養豊かな男性だったというギャップがテーマの一つだったのだろう。それとも、そんな人間がどこかにいて、その人をテーマに書いたのかも知れない。
――ひょっとして作者も、俺と同じ世界を見ているのかも知れない――
 同じ人間がいる世界で、さらにその人間がまったく違う性格だったら……。
 こんなテーマも面白いはずだ。
 だが、実際に書くとなると、これほど難しいものはない。何しろ完全な想像で、知らない人格を書くのは簡単なことではない。何かしらその人の深層心理を分析できるだけの根拠や実績がなければ無理ではないだろうか。特に人に感動を与えるものは難しい。少なくとも武には感動が伝わった。とすれば、作者にも同じ世界を見る力があるのだろう。
 武はこの世界を夢だと思っているが、今までに何度も同じ夢を見ていることになる。場面はいつも同じで、夢であれば曖昧な世界をいつも同じに見ることが本当に可能なのかと不思議に感じる。
 夢の内容を覚めてから覚えているというのも、あまり考えられないことだ。目が覚めるにしたがって忘れてしまうのが夢というもので、現実を見つめた瞬間に、夢は記憶の奥に封印されてしまうのである。
 父親は家に帰りついた。そこは武が家族と住んでいる家である。
「あなた、また呑んできたの?」
 表に聞こえるほどの大きな声が家の中で響いている。あの声はまさしく武の母親だった。普段は、父親の威厳の前では声を発することはなく、
――何を考えているんだろう――
 と思うほど、父親には従順な母親の声が響いているのである。
 顔は想像もつかない。見ない方がいいと咄嗟に思ったほどだ。見てしまうときっと幻滅するに違いない。だが、見たい気持ちもあった。
 父親の情けない姿を見て、最初こそ、
――見るんじゃなかった――
 と思ったくせに、一度見てしまうと、どこか哀愁を感じさせ、身近に感じられた。
――これこそ、一番人間らしい姿じゃないのか――
 情けなさが人間らしいなどと考えたことはなかった。見ていて何を考えているか分からないほど憔悴しきっていて、酒に溺れているくせにどうしてそう感じたのだろう。やはり実際に知っている父親とのギャップがそう感じさせるに違いない。
 母親に対してはどうだろう?
 父親への反発がまるでない姿は、ただ生きているとさえ思えるだけだが、大きな声を出しているのは少なくともストレス発散になり、ストレス発散は人間らしく生きていたいと思う気持ちの表れに思えてきた。
作品名:短編集54(過去作品) 作家名:森本晃次