短編集54(過去作品)
という、まるで子供のような考えしかなかった。
歩いていくうちに日が暮れてしまった。空を見ると右の空はまだ夕陽で明るいが、左の空は黒くなりかけているのを感じる。その向こうにかすかに星が見えているが、星のそばに月があるのが見えると、風が吹いてきたのを感じた。
強い風ではない。風に逆らうように歩いていると、交差点にぶつかった。その頃になると、通りに見覚えがあるのを感じていた。完全に自分の家に向っている途中である。
空き地を見かけて立ち止まると、さっきまで子供たちが遊んでいたのか、砂場にはたくさんの道具が残されている。砂場遊びに使うプラスチックのバケツやスコップ、カラフルな色のものに、遠くてハッキリと見えないが、マジックで名前が書かれている。しかもひらがなで……。ついさっきまでいたことを明確に示すかのように捲れた砂の部分が真っ黒になっていた。
しばらく砂場を見ていると、今度は風を感じなくなっていた。足元を見ると影の部分と暗くなっている部分との境目がギリギリ分かるくらいで、影が存在しうる限界になっていた。
近くの家から明かりが漏れてくる。砂場に座って、ギリギリ見える明かりを頼りに遊具の名前を確認すると、そこには、
「あかさか たけし」
と書かれている。
「俺の名前じゃないか」
そういえば見覚えのある遊具だった。いつも数人の子供と一緒に遊んでいて、そのまわりを同じ数だけの母親が見守ってくれている。だが、実際は母親同士話に夢中になっていて、子供の様子を真剣に見ていない親も結構いた。武の母親もその一人で、親が集中していないのをいいことに他の子供に悪戯している子供がいても、誰も咎める親はいない。しかも、悪戯された子供は声を立てることもなく、じっと黙っている。目だけは母親を睨みつけているが、どの母親も気付かない。
――本当に気付かないのだろうか――
一人の子供だけであれば、
――気付かない母親なんだ――
ということで済まされるかも知れないが、気付かない母親は一人だけではない。他ならぬ武の母親も同じだった。
親たちが気付かないふりをしているということは考えられない。その時武は幼心にも、
――母親は僕たちが見えていないんだ――
と思ったものだ。
幼いので、そのことが不思議なことだとは分からない。ただ、見えていないということだけが頭に残った。
もちろん、そう感じたのは、砂場で自分の遊具を見つけたことで、初めてその時に感じたことなのかも知れない。だが、その場で幼い自分に立ち返ることでその思いが確立できたのだから、やはり時間の歪みに落ち込むか、夢の中で感じることでもない限り、気付かないことが多いに違いない。
時間の歪みに落ち込むということは、理論的には不可能だと言われている。小学生では難しいことだが、武はSFには興味があって、その手の本は何冊かすでに読んでいた。
犯してはならないルールが時間にはある。
同じ人間が違う時間に存在してはいけないことも勉強していた。タイムマシンが理論的に可能であっても、作ることができないという理由も本の中には書かれていた。
過去に行って、自分に関係のある人と接触することで、生まれてくるはずのそれ以降の運命に少しでも影響があれば、自分が生まれてくる確率が一気に減ってしまう。自分が生まれなければタイムマシンで時代を狂わすこともないのだが、生まれてきた自分が与える影響もまったくないことになる。これは自分だけに限定したことだが、それは誰にでも、どんなものにでも影響してくる。
「世の中が偶然によって成り立っている」
という人の話があったが、
「その偶然だって、必然あっての偶然なんだ」
と解く人もいる。だが、もっと言えば、偶然と必然は紙一重、世の中すべてがどちらにでも言えるのだ。交わらないものに見えて、実は同じものから分離しているという考えである。小学生には難しかったが、砂場で自分の遊具を見つけた事実が夢の中のものであるとすれば、それは潜在意識が見せたものだとして説得力のあるものである。
武は立ち上がって歩き始めた。目指すは自分の家だった。
――もし、そこにもう一人の自分がいたらどうしよう――
あまり気持ちのいいものではない。
それまでに武は、幾度も怖い夢を見てきた。その中で一番怖かった夢は、もう一人の自分の存在に気がついて、相手に悟られないように無意識に見つめていると、視線を感じるのか、必ず気付かれてしまう。
急いで逃げようと試みるが、逃げるところすべてにもう一人の自分が現れる。
考えてみれば自分なのだから、考えていることは手に取るように分かるだろう。どこに隠れようが追いかけてくる。却って隠れない方がいいくらいだった。
だが、どうしても隠れなければならなかった。
隠れずにもう一人の自分に今の自分を見られてしまうと、
――このまま夢から覚めないのではないか――
という根拠のない恐ろしい考えが頭の中を支配する。
追いかけてくる自分の動きが非常に遅いことが幸いして逃げることはできるが、逃げた場所には必ず現れる。いずれ疲れ果てて捕まってしまうのは目に見えて明らかなことだった。
捕まってしまうところまで想像できなかった。
夢というのものが、恐怖を感じる寸前で目を覚まさせてくれるという意識があるからだ。恐怖を感じると同時に目が覚める。だから目が覚めてからは、どんなに怖い夢を見たとしても恐怖の意識が次第に薄れてくるのだ。目が覚める過程で消えていくのだと思っていたが、恐怖を感じる夢だけは、一気になくなっているように思えてならない。
残っているとすれば、それはただの余韻である。余韻だけでなければ、夢の中の世界から脱却できないと考えるからで、その恐怖がどんなものか、きっと大人になれば分かると思っていた。
完全に真っ暗になった公園を抜けると、家のあちこちから明かりが漏れてくる。声も聞こえてくるようになっていた。
街灯の明かりだけを頼りに歩いていると、角から影が迫ってくるのが見えた。細長い影が今しも正体を現すと思ったその時、角から曲がってきた男が酔っ払いで、完全な千鳥足、意識はすでに飛んでいるのが見て取れた。
――まるで漫画の世界でも見ているかのようだ――
酔っ払いが楽しそうに家族へのおみやげを手に持って千鳥足で歩いている姿をアニメでは見ることができるが、実際の姿を見ることはまずないだろうと思っていたことだっただけに、滑稽としか言えないその姿を決して笑うことはできなかった。酔っ払いは何を考えているのかまったく分からないが、ただ同じことを小声で呟きながら楽しそうだ。
――これも潜在意識なのだろうか――
自分の父親は絵に描いたような堅物おやじで、酒を呑んで酔っ払っているところを見ることなどまったくなかった。
人に当たることが嫌いで、そのせいかいつも無口だった。下手に口を開けば文句が出てくると思っているのか、そのくせ絶えず睨みを利かせている。
我慢しているのは目に見えている。我慢するくらいなら、少々怒ってくれた方が気が楽だと思ったこともある。とにかく父親としばらく一緒にいると、息が詰まってしまうのだった。
――かあさんはよく一緒にいられるな――
作品名:短編集54(過去作品) 作家名:森本晃次