短編集54(過去作品)
どんなに大きな声を出して騒いでいても、少々のことでは居酒屋では当たり前、まわりを気にすることもなく騒いでいる連中を見ることは早苗にとっては許せないことであった。
それは浩一郎にも言えることだった。
人に合わせるのが嫌な浩一郎は、集団で騒いでいるのを見るのが一番嫌いだった。
人の迷惑を顧みることもなく、騒いでいる連中、何を考えているのか疑問であった。
そうは言いながら、学生時代の浩一郎にも同じようなところがあった。よく呑み会では大声で叫んでいては、まわりから
「うるさい」
と怒鳴られたものだ。素直に謝ってはいたが、なぜに自分が謝らなければならないか、疑問でもあった。
――大学生は少々のことをしても許される――
という気持ちがあった。それが自分の中で甘えを作っていたことに気付いていない。
しかし、それも次第に分かるようになってくると、怒鳴ってくれた人が憎くなくなってきた。むしろ、そのことに気付かせてくれたことへ感謝したいくらいになっていた。誰もが浩一郎のように素直な気持ちになれるかは分からない。そう思うと自分が他の人とは違うという思いがさらに強くなってきた。
そのせいであろうか、人の迷惑を顧みない人たちを見るのが無性に腹立たしくなってきた。
「他の人のことなんか放っておけばいいんだ」
と言われるが、ルールを守らない人間を腹立たしく思う気持ちは年齢を増すごとに大きくなってくる。それがストレスとなって、きつくもなってきていることが分かって来た。
人に注意をできる精神状態の時は注意をするが、落ち込んでいて注意ができる精神状態でない時は、それがそのままストレスとして残ってしまう。そんな精神状態を癒してくれるのが早苗の存在だった。早苗という女性の存在を一番強く感じることができるのは、浩一郎にとって、必然的に、あるいは無意識のうちに蓄積されてくるストレスを感じる時であった。
仕事で疲れてる時に感じる早苗の存在、それは何者にも変えがたいものだった。好きだという感情を持つよりも前に感じた感情だったからである。早苗は今までに友達以上だと感じた女性の中でも一番魅力的で、「女性」を感じさせる女だった。
女を感じさせる女性は今までにもいた。
どう違うのかといわれれば難しいが、魅力の中に知性を感じると言うのが一番適切かも知れない。
早苗とはすぐに身体を重ねる関係になった。
知り合った場所がスナックだったというのも、出会いからして妖艶さを含んでいたのかも知れない。早苗も最初から浩一郎に大人の男を感じていたようで、
「あなたと最初からこうなることを分かっていたのかも知れないわ」
事を終えた後に残った気だるさの中で、天井を黙って見つめていると、お互いの身体に空気の入る隙間を与えたくないと言いたげなほどに身体を密着させてくる早苗。そんな彼女をいとおしいと感じ、気だるさがこれほど心地いいものだとは思わなかったというほどの快感を与えてくれた。
敏感になった身体は時として肌の密着を拒むものだ。
奈那子に対してがそうだったかも知れない。奈那子とは最後の最後に求め合ったはずで、それまでの感情を一気に爆発させたはずだった。だが、それも最後だという予感があったからで、実際に果ててしまうと、気持ちはそれまでのものとは違って、心地よさを最後まで残したいがために、お互いに密着を拒んでいたものだった。
――こんなものなのか――
女性を求め合って、身体から放たれた欲望の後、訪れる気だるさに自己嫌悪を感じていた。女性を求めることは、自己にある欲望を放つだけで、相手もそれを受け入れると後には何も残らない気がしてしまう。女性と仲良くなり、相手を好きになって最終的に身体を求め合った結果がこれであれば、女性を求めることの意味が浩一郎には分からなくなってしまう。
だが、それでも女性と仲良くなることは身体を求め合うこととは違い、自分の中にある寂しさや孤独感をお互いにぶつけ合ったり、さらには、中に秘めた気持ちを誰かにぶつけたいと感じた時にそばにいてほしいと思う気持ちが女性に対して残っていることも感じていた。
――別に恋人でなくてもいいじゃないか――
友達以上であっても、何の問題もないはずである。奈那子やかすみに感じた感情であっても何の問題もないはずである。
早苗に感じた感情は一目惚れだった。
それまで一目惚れに近いものはあったが、それはきっと小学生の頃にそばにいてくれた女性の面影を追いかけていたからに違いない。
早苗の場合は、それまでに知り合った女性の誰とも違った雰囲気を持っている。笑顔が素敵だったり、黙っていても気持ちが伝わってくる感覚は、奈那子やかすみにもあったが、早苗の場合は、それが会話として成立していた。
浩一郎の言いたいことをすぐに早苗が言ってくれたり、早苗にしても、
「私が言いたいことをあなたが先に言ってくれることがあるの。だから、あなたに惹かれたように思うの」
と、浩一郎を好きになった理由をハッキリと言ってくれた。
――言葉にしなくとも通じ合えるものがある――
と、浩一郎は恋人になる人を漠然と思い浮かべる時、そのことを気にしていたが、早苗はまさしくそんな女性だった。
言葉が繋ぐ気持ちの架け橋、それを感じさせてくれることを、最初に感じたのだろう。そうでなければ一目惚れなど考えられないと、浩一郎はずっと感じてきた。
「あなたとなら、何度でも求め合えそうだわ」
それまでに何人の男性を知っていたかなど、意識もしなかった。嫉妬がなかったといえばウソになるが、それよりもそれ以降は浩一郎だけを愛してくれそうに思えて仕方がなかった。
――愛してくれそう――
身体を重ねて果てた後、すぐに愛などということを考えたこともなかった。
いとおしく思って相手の身体を求め、抱き合って最後には果てる。そんな行為だけを求めるのは恋した相手に違いないが、果ててしまえば我に返ってしまい、気だるさしか残らないのは、恋のまま終わってしまうことではないだろうか。
――そこから先こそが始まりなんだ――
という思いを感じる相手こそ、愛情が湧く相手に違いない。
今まで付き合っていたのかどうなのか分からないが、とてもいい関係だった人たちである奈那子やかすみは、
――限りなく愛に近い恋――
を感じさせてくれた人たちだった。
彼女たちがいたからこそ、本当の愛を見つけることができたのではないかと感じる子一浪だったが、早苗も同じことを感じているだろう。
「私たち、お互いにウソはないものね」
早苗はそう言って、いつも微笑んでいる。これがお互いの愛の気持ちのキャッチボールの合図のようなものだった。もちろん、浩一郎は、
「ああ」
という一言だけを返すが、その瞬間、お互い暖かい笑みに包まれている。
だが、そのことを本当に気付いたのは最近になってからだった。
早苗が三十歳になったのを契機に、結婚した。付き合っている時期は長かったが、それもお互いの気持ちを暖めていたからである。
「結婚だけがすべてじゃないけど、きっと結婚するならあなたとかも知れないわね」
と話していたが、それは結婚を焦っているわけではなかった。
作品名:短編集54(過去作品) 作家名:森本晃次