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短編集54(過去作品)

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 かすみには一人が似合う女性というイメージがあった。このイメージは男性ならば誰もが持つものだと思って疑わなかったが、まわりの人は皆がそう感じていた。
 それだけに、そんな彼女を自分ひとりが独占していることへ満足感を持っていた。ゾクゾクと鳥肌が立つほどの気持ちの盛り上がりを感じることがあり、これは今までに付き合った女性に感じたことのない思いだった。
 かすみも同じ気持ちのようで、
「あなたは他の男性とは違うの。私はあなたでないとダメみたい」
 浩一郎の腕の中で、心地よい気だるさを感じる中、聞こえてくる声が気持ちいい。
「風を耳が感じることがあるんだ」
 登山が好きな友達が、登山の好きな理由をそう表現していたことがあった。
「どういうことだい?」
「空気がそれだけ違うんだよ。耳って性感帯なんだけど、風で耳が感じるなんてあまりないだろう? 風が弱いと感じるはずもないし、強すぎると今度は感覚が麻痺させられる。ちょうどの感覚でないといけないのさ。山の空気には下界の空気にない厚みがある。それが心地よく感じさせてくれるんだ。匂いだって感じるんだぞ」
 と言っていた。
 女性が発する息吹きにも厚みを感じる。特に自分の身体を感じてくれたと思っていると、相手をいとおしく感じる。その思いが身体全体に染み渡って、敏感になっている身体をさらに感じやすくしているに違いない。
 かすみと一緒にいる時間だけが、自分に戻れる時間だった。
 営業の仕事というのは、どうしても自分を偽らないといけない時間でもあった。
「営業の極意は、限りなく自分に近い形で相手に接することさ」
 これが浩一郎のモットーだったが、それは自分を偽らなければならないことがその反面に存在していることの証明でもあった。
 相手への誠意は、自分をいかに正直に相手に伝えるかということが大切ではないだろうか。それができなければ相手は信用してくれない。自分もそれを感じることのできない人間を信じることができない。
 営業と男女関係は似ている。
 最初から相手が分からないのは当然であって、必要以上にそれを意識してしまう。それは相手を知りたいという気持ちの裏返しで、どうでもいいと思っている人であれば、それ以上に意識する必要などない。
 厳密には、営業と恋愛にはかなりの距離があるのだろうが、それも相手を意識しているから感じることであって、意識がないと距離という気持ちを持つこともないはずなので、気付くこともない。何とも皮肉なことではないだろうか。
 かすみに対して恋愛感情を抱いた時期もあった。
 それまでに知っている女性とどこか違った魅力を持ったかすみに惹かれたのも、仕事が自分にとって充実したものになってきたことが大きな理由だった。精神的にもゆとりが生まれ、仕事をする環境で、気持ちに余裕ができたからまわりが見えるようになってきた。
 まわりが見えてくると、まわりの目から自分を見つめることができるようになり、
――意外としっかりした考えを持っているじゃないか――
 と思える部分が随所に見られるようになったのである。
 思い上がりだったかも知れない。自信過剰も拭えないだろう。だが、自分に自信を持つことは悪いことではない。
「自分に自信が持てなくて、人から信頼されるわけもない」
 というのが浩一郎の考え方だった。
 まわりが見えてくると、相手が自分を見つめる目になることもできるということを、初めて知った。かすみが自分をどのような目で見ているか、分かったような気がしたからだ。
――同じような気持ちでいるに違いない――
 友達以上恋人未満という言葉があるが、きっとそのとおりだ。
 未満とついているということは、恋人ではない。以上ということは友達も含まれる。ということは、限りなく恋人に近い友達という定義が一番ふさわしいたとえになるだろう。
 考えてみれば、未満という言葉はあるが、以上に対比する未満に当たる言葉はない。それよりも大きいという言葉は、すべて以上と表現され、それ自体と含んでしまうもっとも曖昧なニュアンスで受け取られてしまう。面白いことだと浩一郎は考えていた。
 だが、かすみに関しては、まさしくその言葉が当てはまった。
 恋人と言える関係ではない。どこからが恋人と言えるのかと言われれば返答に困るが、
「相手を意識して、身体に変化が現れるようなら確実に恋人と言えるんじゃないかしら」
 これはかすみ考え方だった。
「どういうことだい?」
「女性は男性と違ってデリケートにできているものなの。子供を生む身体なので、男性よりも強くできているはずなんだけど、でも、それだけに感じ方もきっと男性よりも強いはずなのね。だから、気持ちだけで感じることもあるし、序実に変化が現れることもあるのよ」
「男性だって、気持ちで感じるよ」
「でも、歴然とした変調として身体に生まれることはないと思うの。これが女性の本能とでも言うのかも知れないわね」
 かすみは確信を持っているようだった。男性の身体になったことのない人がここまで自信を持って言えるのもすごいと感じたほどである。
 浩一郎は、そこかでハッキリとした確信を持てなかったが、かすみの言葉に大いに感じるものがあった。
「なるほど」
 と感心したことも、かすみに対して恋人未満である自分を自覚できたのかも知れない。
 恋愛とは、あまり言葉に表わすものではなく、気持ちが高ぶっている時は決して言葉など出てこないものだと思っていた。そんな気持ちにかすみといる時になったことはほとんどなかった。身体に変調が起こるほど相手を感じたことなど、もちろんなかった。
 それでも一度身体の関係になったことがあった。
 気持ちの高ぶりは確かにあったのだが、それが恋愛感情のようなものだったとは思えない。
 かすみもそうだったに違いない。お互いに、相手の身体を貪る感覚は、獣の本能に似たものを感じていたはずである。少なくとも浩一郎はそうだった。だからこそ、他の女性に感じたことのない新鮮さを感じ、身体が反応し、かすみを求めたに違いない。
――恋愛感情などなくとも、相手を求めることがあるんだ――
 と感じたが、恋愛感情のない本能による相手を欲する気持ちは、恋愛感情によってもたらされたものよりも強かった。
 匂いを感じた。それまでに感じたことのない女性の匂い。嫌な匂いでは決してなく、身体の奥からこみ上げてくるものを誘発させる匂いだった。
 動物や昆虫などは、発情期になると自分の身体から異性を誘惑する匂いを発するという。人間にないと誰が言えよう。気持ちが高ぶっているので感じないのか、感じているのに、発情が収まった頃に忘れてしまっているのか分からないが、確実に感じているに違いない。
 匂いは色を伴っている。無色無臭のものが果てしなく無数に空気の中には含まれているが、その中に色があって匂いがあるものもあるのではないだろうか。それに気付かずにいるのは、今いる世界を自分なりに想像し、想像したものと目の前に広がっているものが、寸分狂っていないからなのかも知れない。ひょっとして人間という動物は、先天的に一瞬先のことを絶えず想像して生きているのではないかと考えたこともあった。
作品名:短編集54(過去作品) 作家名:森本晃次