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短編集54(過去作品)

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「あなたの誠実さに惹かれたの」
 などと言われれば、脈ありと思い、付き合い始めてからは、今度は彼女が尽くしてくれるようになった。
 そうなれば男性としては、全幅の信頼を置きたくなる。
 しかし、その時期になると、彼女はすでに他の男性に目移りする。せっかく付き合い始めた男性がいるにも関わらず、彼女はそれだけでは安心しないのだ。安定を手に入れると、今度はそれ以上のものを求めようとする貪欲さが生まれるのだ。
 したたかな性格と言ってもいいのだろうが、それだけで片付けられない。一言で言ってしまっては、彼女が可愛そうかも知れない。
 男にだってあるだろう。目的を達成すれば、さらにそれ以上を求めようという気持ち、彼女の中には、さらなる探究心があり、留まるところを知らない貪欲さがある。そのことに早く気付いた孝也は、
――自分の手には負えない――
 ということで、彼女に別れを切り出した。
「どうしてなの? 私のどこが?」
 まったく自負の思いのない彼女の澄んだ目を見ていると、ハッキリとした理由が本当にないのではないかと気後れしてしまいそうになる。
 しかも言い訳をしたくない孝也は、どう答えていいか分からず、何も言わないまま、彼女との距離を置いてしまった。彼女には孝也が理不尽な男性に見えたに違いない。
 だが、孝也とすればそうするしかなかった。そして今でもその時の選択は間違っていなかったと信じている。
 彼女は、今でも同じことを繰り返している。繰り返せざる負えない性格なのだ。
 もちろん、賢三はそんなことを知る由もない。
 賢三は、彼女が孝也と知り合いだったことを知らない。ちょうどその時は、賢三が仕事で離れていた時期だったからだ。だが、彼女は賢三が孝也の兄であることを知って近づいた。それは、孝也への復讐であるかにも見えた。
――彼女がいくらしたたかでも、そこまではないだろう――
 と感じたかったが、実際のところは孝也にも分からない。
 確かに最初は復讐の気持ちを持って近づいたのは分かっているが、賢三と付き合っているうちに孝也に見せたのと違う雰囲気を醸し出していた。
――今の彼女は自分が分からなくなっているのかも知れない――
 そのことを感じるようになって、兄のことを考えると、どうしても見えてくるのは背中ばかりであった。
――どんなに追いかけても兄に追いつくことはできないんだ――
 この思いはずっと持っていた。
 背中しか見えないのは、兄との年齢の差、それが経験の差であることを分かっているからだ。
 相手が肉親でなければ、年齢差があったとしても、相手を直視することもできる。だが、自分が生まれた時にはすでにこの世に存在していて、ずっと一緒に育ってきた間柄では、ずっと背中を見つめるしかなかった。
――どんなに努力しても、この差は縮まらないのだ――
 兄の夢を見ることもあった。
 夢では何とか兄の前に出ようと努力していた。
 夢を見ているという自覚があり、
――夢の中では何だってできるんだ――
 という思いがあったからだが、夢の中では何でもできるというのは錯覚であることを一番知っているのも孝也だった。
 夢を見ているということは時々意識していた。夢だからこそ何でもできるだろうということで、
――空を飛びたい――
 と思ってみたが、失敗に終わった。膝の上くらいのところで浮くことはできるが、空気というまるで水の中のような世界で宙に浮くだけだと、その動きは思い切り抵抗力に遮られて、とても自分の意志が追随するものではない。
――夢というのはそんなものだ――
 願いが叶ったとしても、それは想像していたものとは程遠く、あまりにも失望感の大きなものとなって帰ってくる。夢から覚めることを望むに違いない。
 夢の中では兄の前に一度だけ出ることができた。
 その時感じたこと、すでに思い出すことは困難になってしまったが、もう二度と夢の中で兄の前に出たいと思わないようになったことが、その時の気持ちを表わしている。
 だが、現実では絶えず兄の前に現れたいと思っているギャップは、夢が現実ではないということを示している。その時の兄の表情を想像することはできないが、きっと微笑んでいるに違いない。
 だが、微笑んでいる兄の顔が果たして孝也の望んでいるものであろうか? 一番見たくないものに思えてならない。それは何かを知ってしまった時の笑顔であって、気持ちの中にある余裕が醸し出すものではない。知ってしまったことが何を意味するか、それも孝也にしか分からないことだった。
 兄に今の現実を教えてあげたいが、孝也にはどうすることもできない。
 孝也はすでにこの世の人間ではなかった。あの世の人間になることもできずに、この世を彷徨っている。
 あの世に行けるものであるなら、行きたいと何度考えたことだろう。なぜ行けないか最初は分からなかった。だが、今では分かっている。
 彼女が言っていたっけ。
「あなたの背中しか私には見えない」
 自分が兄に感じたことだった。背中しか見えないのが辛いこと、それは一番孝也が感じていることだ。だからといって、他の男性に目移りしていいはずはない。
 兄に対して同じように背中しか見えない孝也だったので、彼女もきっと同じに違いないと思うのは性急かも知れないが、今の孝也にはすべてが見通せるのだった。
 すべてが見通せる孝也であったが、それでも兄の背中を飛び越えて前に出ることはできない。
――兄の影だけを追いかけているからなのか?
 影を意識したことはないが、時々影を意識すると、その影すら見えないことがある。ビルの影に隠れたり、太陽自体が、雲に隠れてしまっていたりするからだ。
 孝也と賢三は縮めることのできない距離がある。
 最初は年齢だけだと思っていた。だから仕方がないと思っていたが、影の影響も果てしなく強い。影が逆に年齢差を痛感させることもある。
――影と年齢差の相関関係――
 この世のものではない孝也には、今だから分かることがあった。
 兄の賢三が孝也を意識する時、その時になれば、やっと孝也はあの世に行けるだろう。兄という存在の大きさが、影という幻を見つめることになる。
 兄が決して振り向かない理由があった。それこそ決して交わることのない平行線であった。
「後ろを見るのが怖いんだ。実態がないのに、影だけがいつも俺を追いかけている」
 誰にもいうことができずに、賢三はいつも影に怯えているのだった……。

                (  完  )



作品名:短編集54(過去作品) 作家名:森本晃次