短編集54(過去作品)
逆に孝也は聡いたちだった。友達が後ろに立ったりするとすぐに気がついていた。別に自分に関係のない人であれば何ら意識することなどないのに、後ろに立っているのが知っている人であれば、気にならないわけにはいかないという意識が働くからだろうか。
「俺だって知っている人が後ろから視線を送っているとすれば気にならないはずはないだろう。だけど本当に気付かないんだ。これって怖いことなのかな?」
と兄は言っていたが、本当のところどうなのだろう?
下手に気にしすぎる必要もないだろう。気にしすぎてストレスを溜めるのであれば、完全にマイナス面しかない。だが、気がつかないことで、相手に不快な思いをさせるのであれば問題であろう。
「気付かないだけで不快な思いをするかな?」
兄の言うとおりである。別に相手も気付いて欲しいと思って見つめているわけではないだろうから、気付かないのも無理はない。だが、孝也だけは、兄には気付いてほしいと思っているのも事実だった。
そんな孝也は、時々誰かに後ろから意識されていることに途中まで気付いていなかった。ある日突然、
――変な視線を感じる――
と思ったのは、社会人になってからだっただろうか。
ちょうどその頃、付き合っていた女性と別れたばかりだった。大学二年の頃に知り合って、そろそろ三年が経とうとしていた頃だった。結婚というと大袈裟だが、就職してある程度めどが立ってくれば、そんな言葉を意識するようになるだろうと思っていた相手だった。
彼女も同じように考えていたに違いない。
孝也にとって、彼女は自分にない部分を埋めてくれる貴重な存在でもあった。それが自分から見て雰囲気もルックスも理想に近い女性であれば、これほど素晴らしいことはない。
彼女は、どちらかというと人見知りするタイプだった。年齢は孝也より一つ下で、孝也が二年生の時に入学してきた。いつも一人でいるのが最初から気になってずっと見つめていたのだが、彼女は最初、孝也の視線に気付かなかったようだ。
話しかけると、話しかけられるのを待っていたかのように、話し始めると、堰を切ったかのように話し始めた。
「高校の頃までは女子校だったので、あまり男性とお話したことはなかったんです。こんな感じの会話しかできませんけど、いいですか?」
「大丈夫ですよ、しっかりとした会話になっていますからね」
あどけなさが残り、さらに他の人とは相変わらず話をすることができないでいたが、自分にだけはハッキリと話してくれる彼女の存在が嬉しかった。自分のこれからの人生を変えてくれると確信していたくらいだ。
他人から見れば、お似合いのカップルに見えていただろう。もし自分が他人だったら、きっと羨ましく思うだろう。かといって、嫉妬とは次元が違い、微笑ましさを感じるに違いない。贔屓目に見ているからだろうか。
孝也にとって、彼女の存在は、しばらく兄のことを忘れさせるだけの存在でもあった。兄をずっと意識しすぎて、兄の背中ばかり追いかけていた。彼女と付き合い始めるようになってから、
――兄の背中って、どんなんだっけ――
意識の中に封印されてしまっていた。
――これからは、俺の人生なんだから、俺の生き方をしてもいいよな――
今までもそのつもりだったはずなのに、兄の背中を意識するあまり、この当たり前のことを忘れてしまっていた。兄は、意識していないとしても、それだけの存在であることに違いはないだろう。
彼女と付き合い始めてからの孝也は変わった。
女性への妄想は、高校時代には間違った方へ向いかけたほど、強いものがあった。彼女ができることで、少し沈静化していたが、初めて彼女を抱くまでは、妄想は膨らみ続けていた。
――なんだ、こんなものか――
初めて女性の身体を目の当たりにして、実際に触れてみると、妄想が大きすぎたことにがっかりした部分があった。
妄想はあくまで妄想で、とどまるところを知らないのも妄想である。
世の中には妄想を必要以上に煽ってしまうだけの情報が溢れかえっている。妄想が欲望にならないとも限らないので、思春期の青年には制御が必要だが、孝也は抑えつけることをしなかった。
――下手に抑えつけられると、反発心が働いて、逆効果だ――
と思っていたからだ。見たいものを抑え付けると、さらに見たくなったり妄想が大きくなるのは人間の性ではないだろうか。
初めての女性としての彼女はそれまで素晴らしいと思い続けた気持ちをピークに押し上げた。だが、一旦身体を重ねてしまうと、ピークから下り坂は見えてくるが、その上の空が眩しくて見えてこない。上り詰めてしまったことを暗示しているかのようだった。
少し自分の中でぎこちなさを感じるようになっていった。
それでも交際は三年も続いた。続いたからこそ、
――結婚を考えてもいい女性だ――
と思えたのだ。結婚は恋愛と違って、末永く気持ちの持続が必要である。それに十分な期間付き合ってきたと思っていた。
「結婚、考えてみないか」
彼女に言うと、少し戸惑っていた。
「すぐに答えを出す必要はない」
と言ったが、彼女が不思議なことを言い始めた。
「最近、私はあなたの背中ばかりしか見えていないような気がするの。背中にしか意識がないと言えばいいのかしら」
――背中――
自分が兄の背中を見続けていた時期を思い出した。相手の背中しか見えないと、表情が分からない。兄弟であっても、何を考えているか分からないのは、不気味なものだった。
彼女とは、なぜ別れたのか、ハッキリと分からない。それでも結婚という言葉を口にしたことで、引いてしまったのは間違いないだろう。
――真面目すぎるのかな――
と感じたが、それは孝也自身のことか、彼女のことなのか、その時には分からなかった。
最近、賢三は後ろをよく気にするようになった。まるで何かに怯えているかのようだが、その理由は孝也にしか分からない。
「もし、あの時にちゃんと振り向いていれば」
この思いは一生消えないのかも知れない。
しかし、気にはなっていても、決して振り向こうとはしない。振り向いたそこにあるものが何であるか知っているかのようであった。
賢三が今、結婚しようとしている女性、彼女のことを孝也はよく知っている。これも孝也でなければ知ることのできないことなのだ。しかも孝也には賢三の性格が手に取るように分かっている。相手を信じてしまえば、とことん信じるという危険性をはらんだ賢三に、彼女が果たしてお似合いかどうか、考えただけで恐ろしい。
彼女とは孝也は一時期付き合っていた時期があった。誠実で優しさを前面に押し出した彼女の雰囲気は、真面目で素直にしか女性を見ることのできない男性には、まるで天使のように見えるに違いない。
実際に孝也もそうだった。
大学時代から付き合っていた女性と別れ、自分自身もよく分からない時期であったこともその要因なのかも知れない。
男性に尽くすことを厭わない女性、男に尽くすことしか考えていないように見えるが、男の優しさを引き出すための演技であった。
付き合い始める前、男性は女性に対して恰好をつけたがる。それは孝也も同じことで、それを素直に尊敬の目で見つめてくれて、
作品名:短編集54(過去作品) 作家名:森本晃次