隆子の三姉妹(前編)
「私、高校時代、美術部にいたんだけど、デッサンのようなことをしていたのよね。今でもたまにするんだけど、お店紹介の中でバーを探していたら、このお店を見つけたの、簡単なデッサンだったんだけど、ブログに画像を載せていて、それでお話が合うんじゃないかって感じたので、思い切って来てみたのよ。それでここの常連になっちゃったの」
「それはいつ頃?」
今度は、洋子が訪ねた。
「一月くらい前かしら?」
一月前というと、まだ五月病だった頃ではないか。しかし、その頃から少しずつ由美に変化が訪れていたことを洋子は気付いていた。
隆子はそこまで見えていなかったが、五月病が一過性のものであることは分かっていたので、そこまで心配はしていなかった。それでも、由美の五月病を抜けた時期から、さかのぼって考えてみると、転機があったとすれば、一か月くらい前だったのではないかということは、この店の話を聞かなくても分かっていた。
洋子は、その場その場での判断力には姉よりもあることを自覚しているが。冷静さという面では、どうしても敵わないことは分かっていた。遡って分かるという能力は、隆子にこそ備わっていて、洋子にはそこまで見ることができなかった。それが二人の間での冷静さという意味での違いだった。
バーに入って、最初に中を見渡したのは、隆子だった。その時に壁に掛けられている絵が鉛筆書きのデッサンであることにシックな感覚を覚えたが、それが店主の策によるものだということにはさすがに驚いた。
尊敬に値すると言ってもいいだろう、最初から眼差しが違っていた。
妹二人には、まったくその視線に気付く気配はなかった。特に洋子にとって姉の存在は、自分が考えている姉以外の何物でもないという凝り固まった感覚があった。洋子にとっての隆子は、
――恋愛に関してはウブであり、もし人を好きになったら、自分に分からないはずはない――
という思いが強かった。
冷静であることは、妹二人とも姉に対して感じていることであるが、こと恋愛に関しては、自分たちの方が上だと思っている。
いや、上だと思いたい。
他のことでは自分たちの方が劣っているいう自負があるだけに、頭が上がらないのは当然だが。何か一つでも姉が自分に適わないものがないと、「不公平」だという感覚でいたのだ。
「神は二物を与えない」
というではないか。
姉妹の間で、ここまで差を付けられているという意識があるのは不公平以外の何物でもない。だが、自分たちを守ってくれるために自分たちよりも優れていることは仕方がないと思っていた。それを不公平だと言ってしまえば、バチが当たるというものである。
それでも、妹としても意地がある。すべてを姉に委ねるわけにはいかないという思いは持っていて当然で、隆子に対しての意地は、姉を安心させてあげられるものだとも感じていたのだ。
由美がそこまでハッキリとした考えを持っているとは思えないが、洋子にはそこまでの考えがあった。それだけ由美は隆子を意識していて、それが姉としてだけではなく、女としても感じていることだということを、分かっていたのである。
姉のことをいつも見ているせいもあってか、肝心なことを見逃してしまうところが洋子にはあった。
――絶対に大丈夫だ――
と、自分で思ったことは、スルーしても大丈夫だという自負がある。そこに落とし穴があるなど、考えたこともない。
生まれてからずっと姉を意識してきた妹としては、それも当然のことであり、本当に知りたいと思っていることを勘違いしたままここまで来たのは、ある意味、致命的だったに違いない。
「マスター、こちらが私の二人のお姉さんです」
と言って、カウンターの一番左に座った由美が紹介した。
「これはこれは、由美ちゃんから伺っていましたが、まさしく美人姉妹ですね」
というと、すかさず由美が、
「ちゃんと、美人三姉妹と言ってね」
と言いながら、軽くウインクすると、
「はいはい、美人三姉妹ですね」
と、やれやれという感じで、マスターは訂正した。
どうやら、由美は完全に店に馴染んでいるようで、ここに連れてきたかったのは、自分にも馴染みの店ができたということを教えたかったことと、マスターが安心できる人であるということを二人に言いたかったからだろう。
マスターは、会話しながらでも手を休めることはない。それを見て、
――さすがにプロだわね――
と感じたのは、洋子だった。洋子は一つのことに集中すると、他のことが見えなくなる性格だった。
――そのしなやかな手から、あれだけの芸術作品が生まれるんだわ――
と、感じたのは隆子だった。
隆子は、まず相手のいいところから探そうとする。
――自分よりも必ず何か優れたものを持っているはず――
というのが、初対面の人に対しての隆子の考え方だった。
隆子にその感覚を植え付けたのは、母親だった。
母親が元々そういう性格で、隆子にいつも、
「相手の短所ばかり探すんじゃなく、いいところを最初に探すようにしなさい」
と言っていた。
母親は隆子に対してほとんど何も言わなかったが、このことだけは徹底して話をしてくれた。
――間違っていないわ――
隆子は、自分が納得の行くことでなければ、実行しないというのが彼女の性格というよりも、習性というべきであろうか。
本当は、母親に言われるまでもない。相手の長所を探そうという意識は、潜在意識の中にもちゃんと存在し、本能として息づいていることを自分でも分かっていた。
さらに隆子が、マスターに共鳴したのは、芸術作品を見てからだった。
隆子には、芸術を嗜んだり、造詣を深めることは今までになかった。美術館に自分から行くこともなかったし。人から誘われて行ったとしても、
――どこが芸術なのかしら?
という思いしかなく、芸術に関しては、持ち前の冷静さが発揮されることはなかった。
ただ、デッサンの中で一つ気になるものがあった。
それは、砂時計を描いたもので、じっと見ていると、上の砂が下に落ちてきて、上と下のバランスが崩れていくのが分かってくるようだった。
――これが芸術作品なのかしら?
その時、マスターがどういう性格の人なのか、探ろうと考えている自分がいるのに気が付いたが、もう一人の隆子が、
――それはいけないわ――
と止めているのを感じた。
マスターはそんな隆子の考えなど知る由もないはずなのに、同じタイミングで隆子を見つめ、優しく微笑んだ。
マスターの絵を見ていると、
「お姉ちゃん、絵に興味なんてあったの?」
と、洋子が聞いてくる。
「あまり興味がある方じゃないんだけど、鉛筆書きのデッサンというのって、油絵に比べて分かりやすい気がするのよ」
というと、マスターが横から、
「そうですね、分かりやすいかも知れませんね。でも、その分かりやすさの中に、奥深さを求めたいと、やっている人は思うようになるものなんですよ」
と、答えてくれた。どうやら、マスターは絵のことになると、いろいろと言いたいことがあるような感じだった。
作品名:隆子の三姉妹(前編) 作家名:森本晃次