隆子の三姉妹(前編)
と、隆子は自分の中で何が憧れだったのか、分からなくなってきた。
確かに一家団欒の食事風景は、他人事として見れば羨ましく感じられる、しかし、その輪の中にいる自分を想像することができないのは、自分が望んでいることではないということを示している。実際に、自分の家族を考えた時、一家団欒などありえないとしか思えなかったからだ。
以前、この老人に考えを看破されたことがあった。
「隆子ちゃんは、羨ましいと思うことは、自分の経験から感じているものではなく、客観的に見るから感じられるものだったんだね」
と、言われて、
「いえ、そうじゃないです」
「ん? 当たらずとも遠からじだと思っていたが?」
「いえ、客観的に見るから羨ましく思うんじゃなくって、たぶん、他人事として見るから羨ましく見えるんだと思います」
と答えると、しばらく老人は考えていたようだが、急に笑い出した。
「なるほど、隆子ちゃんは、そういう分析を自分に対してするんだね。きっと隆子ちゃんはいろいろ分かっているんだろうね。分かっているから、その中に矛盾を感じてしまうことが多くなる。それを解決しようとすると、客観的な考えでは解決できないという結論になった。そこで、どうすればいいかと考えた時に、一歩踏み込んで、他人事だと思うようにしたんだろうね」
「そうかも知れません」
「でも、それって、誰もが考えることなのかも知れないよ」
「えっ?」
「皆、一応は考えるのさ。でも、客観的に考えることということよりも、他人事のように考える方が、後ろ向きに思うんだろうね。それを普通に考えているわけではなく、無意識に考えている。それも、気付かないほどの一瞬だよ。それを僕は『本能』だと思うようにしているんだよ」
「本能……」
隆子はしばらく考えていた」
「そう、本能。本能として思うのだから、きっと隆子ちゃんも同じことを考えているはずなんだ。ただ、そこから違うのは、隆子ちゃんがその考えを自分の中で許すことができない。だから、その先を考えるのさ」
老人の言葉に隆子は唸った。
「そんなこと、考えたこともなかったわ。私は、本能というものを意識することは多いんだけど、無意識という考えにまで至っていなかった」
「だから、隆子ちゃんはいろいろ分かっているのに、いつも悩んでいるんだよ。言い方は悪いけど、それが隆子ちゃんが肝心なところが分かっていないと僕が思っているところなんだ」
――そういえば、老人と知り合った最初の頃に、確かに肝心なことを分かっていないと言われたことがあったわ――
ということを思い出した。
隆子が自分の肝心なことを分かっていないから、悩みが多いということを、以前にも誰かに言われたことがあった。それが誰だったのか、すぐには思い出せなかったが、今では思い出すことができる。
――ゆかり先輩――
そう、ゆかり先輩は隆子の身も心も両方理解しているのだということを、隆子はずっと分かっていたはずだった。
隆子は、霊前に向かいながら、そこに眠っている人が、以前自分を助けてくれた人だということを思い出しながら、心の中で祈った。
「あの時はありがとうございました。私はもう少しで、間違いを犯すところでした」
隆子は崖の上をフラフラと歩いていたらしい。本人は覚えていないのだが、どうやら夢遊病のようなものではなかったのだろうかと思う。まわりの人からみれば、
「自殺をしようとしているんじゃないかって思って、ビックリしたわ」
そう言って、その時に危ないところを助けてくれたのが、ここのおばあちゃんだった。あれは、二年前のことだったが、おばあちゃんが助けてくれた時、あれだけしっかりしていた人が、あっという間にこの世からいなくなってしまうなんて、隆子には信じられなかった。
「でも、あれも苦しんで逝ったわけではないから、それが救いだったと思うよ」
と、おじいさんは話してくれた。最後はおじいさん一人に見取られて、この世を去ったということだが、
「わしは、とっくに覚悟はしておったからな。でも、わしより先に逝かれてしまうとは、正直思わなかったがな」
と、おじいさんは静かに笑った。
隆子は助けられてから、
「病院に行った方がいいんじゃない?」
という老夫婦の言葉に対して、
「いえ、大丈夫です。私がぼんやりしていたんですよ。立ちくらみだったかも知れません」
と、答えた。
実際に、隆子にはそれ以外に説明のしようがなかったからだ。
「じゃあ、ある程度よくなるまでここにいればいい。わしらはいつまで居てもらっても、構わんからね」
と言ってくれた時、初めて隆子の目から涙が零れた。人の親切の暖かさを、今まで忘れていたのか、それとも、本当に知らなかったのか、自分でもよく分かっていない。
実際に、人に甘えたくなったのは、後にも先にもその時だけだった。
――本当に、私は自殺しようとしたわけじゃないのかしら?
自殺という意識はまったくなかったのに、こんな風に優しくされると、今さら、
「あれは自殺しようとしたわけじゃないんですよ」
とは言いにくい。
「警察には、届けないでいてあげようね」
とまで言ってくれたので、なおさら自殺ではないなどと言えるはずもなかった。
隆子は三日もすれば落ち着いてきたが、まだ今までの生活に戻れる気がしなかった。それから、老夫婦に甘えるかのように、二週間近く、ここにいた。それがちょうど、躁鬱症の切り替わりの時期と同じ長さだったというのは、ただの偶然なのだろうか。
ここにいる間、嫌なことは全部忘れてしまおうと思った。忘れることができないことも分かった上で、忘れようとするのは無理がある、自分の中で、
「忘れるのではなく、記憶の奥に封印するんだ」
と言い聞かせてみると、意外と気分的には楽になれた気がした。
老夫婦の面倒を見ながら暮らしていると、このまま帰りたくない気がしてくる。その頃は、まだおばあちゃんも元気で、一緒に台所に立って、料理を作ったものだ。
今まで、誰からも教えてもらうことのなかった料理を、しかも田舎料理を教えてもらえるのは、本当に嬉しかった。懐かしい味を好む男性も少なくないと聞いている。料理ができるようになりたいと思って、今まで何度も本を買ってきては、本を見ながら作ってはみたが、思ったようにできるものではない。
――でも、今さら誰のために料理を作ろうと思うのだろう?
相手もいないのに、料理ができるようになったとしても、それは虚しいだけだ。そんな気持ちでいる間は、まだまだここを離れることができないような気がした。
隆子の荷物の中に、スケッチブックがあった。筆記用具の揃っていて、起きれるようになってから四日目くらいには、表に出て、デッサンをしてみた。
絵を描いてると、目の前の光景を描いているつもりなのに、どうも違った景色を見ているように思えてならなかった。
海岸は、入り江のようになった砂浜が広がっているが、その向こうに断崖が見えている。
「私は、どうしてあんなところにいたのかしら?」
おばあちゃんのために、おじいさんが崖の上にある薬草を時々取りに行っているということだが、ちょうどその時、隆子を見かけたという。
作品名:隆子の三姉妹(前編) 作家名:森本晃次