隆子の三姉妹(前編)
「じゃあ、それがあなたのことだとは言えないんじゃないの?」
「いや、それは僕のことなんだ」
男の子はやけにこだわる。隆子も、ここで必要以上に突っ込む必要もないので、そのまま話を続けたが、
「でも、あなたのことを知っているのと、知らないのとでは、どっちが虚しさが強いのかしらね?」
「僕のことを知っていて、それで虚しさを覚える方が、数倍辛いことのように思うんだよ。僕は、その辛さが分かる気がするからね。でも、僕のことを意識することなく虚しさを感じているだけの時にどれほどの虚しさなのかは想像がつかない」
「想像はつかないくせに、どうして、数倍って言いきれるの?」
「それが自分でも不思議なところなんだけど、誰かが耳元で囁いた気がするんだ『数倍お前のことを知っている方が虚しい』ってね」
「それは、誰かではなくて、あなた自身がそう思っただけのことじゃないの?」
「そうかも知れない。そうじゃないかも知れない。そこが分からないから、僕はいろいろと考えようと思うのさ」
「いろいろ考えることは悪いことじゃないと思うけど、考えすぎるのもいけない気がするわ。リラックスすることで気持ちが心地よくなれればいいんじゃないかしら?」
「リラックスすれば、心地よくなれるのかな?」
「えっ?」
隆子は、その時に自分の口からリラックスと心地よさという言葉がよく出てきたと思った。そして、それについて、まさか彼が疑念を抱いてくるというのも、思ってもみないことだった。
彼と話をしないと心に決めていたのに、いつの間にか話に引き込まれていた。それが悪いことなのかどうなのか、ハッキリとは分からないが、隆子は自分の考えがここまでしっかりしていることに驚かされた。
――人の話にここまでよく対応できたなんて――
後から思い出すほど、子供の頃の自分が、すごい考えを持っていたのかも知れないと思うのだった。
隆子は彼の話をどうしても他人事として聞くことができなかった。
――きっと、いつになるか分からないけど、この話をふと思い出すことになるかも知れない――
と感じた。
最初から、この話をずっと覚えているなどということはないと思っていた。どんな心に残る話であっても、時間が経てば忘れてしまうという意識はあった。将来になってからきっと、その理由が分かる時が来るという確信めいたものがあったのだ。
その理由というのが、
――忘れてしまうのではなく、記憶の奥に封印される――
という考え方であって、その考えがあるから、忘れてしまわないようにしようと、執拗に感じないようにしていた。
ただ、この考え方も、少年の話に繋がるところがあった。
――忘れてしまわないようにしていても、忘れてしまえば、果たして、その時に虚しさが残るだろうか?
という考えが隆子の中にあったからだ。これは、自分がこの世から消えてしまっても、一人だけ自分のことで虚しさを感じる人がいると言っていたことと、重なる部分があるのではないだろうか、忘れてしまえば虚しさなど残らないと言えればいいのだが、本当にそうなのか、何か心の中に引っかかるものがあるのではないかと思った時、他の人とは違う考えが頭を過ぎる。
――こんなことを他の人に言ったら笑われる――
という思いが頭の中にあった時、自分が他の人と違うということに対して、どう感じるだろう?
恥かしいと考えるのか、それとも、画期的な考えのできる人だと自分で感じることができるのか、前者は自分を主観的に見る目であり、後者は客観的に見る目である。
隆子は、明らかに後者であった。しかし、それを他人には知られたくないという思いと、人との違いを他の人にも分かってほしいという思いも子供の頃にはあったが、最近は、
――どうせ、自分の考えは他人には受け入れられるものでもない――
と思うと、それが自分の個性であることに気が付いた。
他人に対して恥かしいなどと思う必要などサラサラない。自分は自分の考えを持っていればいいんだ。
「笑いたい奴には、笑わせておけばいいんだ」
そんな思いが頭の中でこだまする。それが思春期以降の隆子の考え方を基礎を作り上げて行ったに違いなかった。
隆子はいつもこの路線に乗った時に、そのことを思い出していると、あっという間に終点の駅に着いていた。しかも、駅に着いた時、何か自分の中でちょうど結論のようなものに行きついた気がするのだが、残念ながら、駅に降り立った瞬間、その結論を忘れてしまっている。
いや、隆子の考え方から言えば、忘れてしまっているわけではなく、自分の中にある記憶する場所に封印されているだけなのだ。
いつもは、電車の中で療養所のことを思い出すのだが、その日は、駅に降り立ってから、療養所のことを思い出した。電車の中で何かを考えていたのは確かなのだが、この日も、ホームに降り立った瞬間に忘れてしまった。
「また思い出すわ」
療養所のことも、今までは駅に降り立ってから考えていたことを忘れてしまうのだが、それは一時的なもので、歩いているうちに徐々に思い出してくる。それはまるでホームに降り立つ瞬間、何かがリセットされたことを意味していた。その瞬間、その場所から、今までの世界と違う世界が開けて、そこには他の誰も入ってこれない自分だけの世界が広がることを分かっていた。
終着駅と言っても、そこは寂れた場所だった。駅前にロータリーがあるが、タクシーが一台いるかいないかで、バス停はあっても、バスが止まっているところを見たこともない。
この街は、温泉と漁村が広がっているだけで、温泉でも出なければとっくに廃線になっていることだろう。とりあえず、いつもここに来ると一泊はするようにしている。姉妹たちもお姉さんが帰ってこないのは、出張とでも思っているようなので、変な勘繰りはないはずだ。
隆子は、漁村に向かった。そこは、寂れた家が立ち並んでいるが、その中の一角にある一つの家に立ち寄った。
「こんにちは」
声を掛けるが、すぐには返事は返ってこない。もう一度声を掛けると、
「どなたかな?」
と、奥から声が掛かる。
「隆子です。お邪魔します」
と言って靴を脱ぎ、玄関から入ったすぐ右側の部屋に入った。そこには、一人の老人が布団の中から身体を起こそうとしている。
「大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だよ。介護の人には今、買い物に行ってもらっているのでね」
そういえば、表にいつも止まっている白い軽の車がなかった。老人は続ける。
「いつもすまないね」
「いえ、私もここに来るのが最近は楽しみになってきましたから、いいんですよ」
と言って、微笑んだ。
「そう言ってくれると助かるよ。でも、隆子ちゃんがここに来るのが楽しみだって言ってくれるようになったことが、わしにとっては、大きな救いになっているよ」
「それじゃあ、墓前に挨拶だけさせていただきます」
そう言って、隆子は老人の寝ている部屋の奥にある今の霊前に手を合わせた。老人一人の暮らしにしては部屋がいくつかあって、ここに以前は家族と呼ばれていたものが存在していたのだと思うと、子供から大人までの一家団欒の食卓が目に浮かんできた。
――私には縁のないものだわ――
作品名:隆子の三姉妹(前編) 作家名:森本晃次