隆子の三姉妹(前編)
実は、一番の恐ろしさは、恐怖心が快感に包み込まれ、感じなければいけないことを感じることができず、感覚がマヒしてしまうことだった。
「あなた、可愛いわ」
と言われて、背中にゾッとするほどの汗を掻いた。
だが、逃れることはできない。
――なぜなのかしら?
身体が求めていることを、その期に及んでも分かっていなかった。いや、身体が求めているということを認めたくなかったのかも知れない。
分かっていて認めたくないという感覚は、その時が初めてではなかった。以前にも感じたことがあると思っていたが、それを感じさせてくれたのが、洋子だったということを、隆子は忘れてしまっていた。
思い出したくもないことだった。別に何かがあったわけではない。その時の洋子の雰囲気がいつもと違っていただけのことだった。
それが、ちょうど洋子が小学五年生の頃で、隆子は知らなかったが、おじさんに悪戯された時のことだった。
その時の洋子と似たような心境になっていることに隆子が感じると、あの時、洋子も何か身体が反応するような心境の変化を感じさせる体験をしたのだと感じたが、詳しく分かるはずもなく、急に洋子に親近感を感じたのも事実だった。
親近感は感じたが、決して交わることのない平行線が存在していることも同時に感じていた。平行線に関しては、洋子に対してだけのことではない。由美に対してもそうだし、他の人に対しての大なり小なり、感じていた。
じっと先輩の部屋の中にいると、大小さまざまなハートマークが実は同じ大きさであり、大きさが違うように見えていたのは、距離感の違いによるものではないかと思うようになっていた。
遠近感の違いを感じていると、上下左右の感覚も鈍ってきて、身体を包む香水が、宙に浮く感覚を誘発していることを感じさせた。
――このまますべてを許してしまうのかしら?
もう、どうでもいいというような感覚に陥った時、相手の指が鈍った。自分では開き直ったつもりになったことが相手の手を鈍らせたのかも知れない。
目を見開いて、先輩は隆子を見つめる。見据えられて手がすくでしまったが、その眼を今度は見返すと、相手は目線を逸らそうとしない。
――この人、私を見ているんじゃないわ――
隆子は、先輩の視線が、自分を見つめているように見せて、実は、視線は隆子のさらに奥を見つめているように思えてならなかった。
どれくらいの時間が経ったのか、二人の間の時間は、止まっているかのように感じた。
決して機を焦ることをしない先輩は、隆子の服を脱がせることも、自分から服を脱ぐこともしない。
「服を着たままの方が、より快感を得られるのよ」
と、耳元で囁いた先輩は、決して肌を合わせようとしない。
「肌と肌との触れ合いは、あなたが本当に好きな男性ができた時でいいのよ」
と、言っていた。
隆子にしてみれば、
――ここまでされていて、そんな言葉を言われても――
と、身体は物足りなさを感じているのを分かっていた。
隆子にとっての甘い時間は、次第に薄れていき、正気に戻る時間が近づいていることは分かっていた。
もし、その日だけで終わっていれば、消化不良に陥っていたかも知れない。
それから二、三日してから、同じように先輩に部屋に来るように誘われた。
もうその時は、声を掛けられた瞬間に、隆子の中で三日前の感覚がよみがえってきた。
最後はどのようにして我に返ったのか、ハッキリと覚えていないが、我に返った自分の顔を鏡で見てみたいと思ったのを思い出した。
洗面所を借りて、顔を洗ったが、顔を洗う前の自分の顔が真っ赤だったのにはビックリした。
目は潤んでいて、
「私がこんな顔をするなんて」
と、信じられない心境だった。
鏡を見なくても、自分がその時にどんな表情をしているかということは、分かってきたつもりだった。元々いちいちそんなことを意識し続けるわけもなく、自分の顔というよりも、心境にしたがった表情をしているかどうかということだけが気になっていた。
顔を洗うと、不思議なことに真っ赤だった顔から赤い色は払拭されていた。その時の心境をそのまま表現した表情が鏡に写し出されていたのだ。
――そうそう、これが今の私の顔なんだわ――
と、感じた。
隆子は、納得して洗面所をあとにすると、
「いつものあなたに戻ったわね。複雑な心境だわ」
と、先輩がいうと、
「ええ、鏡を見て、顔を洗うと戻ったみたい」
と、気軽に答えた。
先輩とは学校でほとんど話をすることもなかったが、なぜ誘われたのか分からなかったが、誘われたことに違和感はなかった。
実際に部屋に入ると、完全に先輩のいいなり状態だったが、
――私って、そんなに相手のいいなりになりやすいタイプなのかしら?
と、まるで他人事のように自分のことを考えていた。
二回目に先輩の部屋を訪れた時は、何もなかった。
部屋の雰囲気にも慣れてきてはいたが、相変わらずの大小さまざまなハートマークには、遠近感を奪われてしまい、いきなり、気が遠くなりそうな気がした。それでも気が遠くならなかったのは、部屋に慣れてきていたからに他ならない。
――まるで自分の部屋に帰ってきた時の感覚のようだわ――
と、二回目で慣れるような部屋ではないのに、どうしてこんなにも馴染んでいるのか、自分でも分からなかった。
最初に来た時、甘い雰囲気に盲目になっていたが、若干ながら恐怖心を感じたのを思い出した。
――怖いものが新鮮に思えるなど、錯覚でもありえない――
と思っていた隆子には信じられないことだった。
小学生の頃、幽霊や妖怪の類は、話を聞くだけで気持ち悪く、そういう話をしたがる人を避けていた。だが、中学に入り、部活などで遅くなったときなど、真っ暗な中で家路を急がなければいけなくなった時、怖いと思いながらも、何とか帰った記憶がある。
その時から数日は、記憶の中に鮮明に残っていたはずなのに、ある日を境に、そんな思いをしたことすら、記憶から消えてしまっていた。それをふとしたことで思い出すことがある。
怖いことは数日間は記憶の中で鮮明に覚えているのに、急にある瞬間を境に、記憶から消えてしまうという意識だけが残っているのだ。
それも、何かの瞬間に湧いてくるように思い出すのだ。
思い出すというのもおかしいのかも知れない。以前に感じた思いだという意識はないのに、感じた時の意識が、
「思い出した」
というのである。
怖いことへの一連の意識は、一度感じたことを、忘れてしまうように、隆子の意識回路が働ているのかも知れない。
それが隆子の中にある「防衛本能」なのだ。
人は無意識に「防衛本能」を働かせるものなのかも知れない。
それは隆子に限らず、洋子にもある。由美にも探せばきっと見つかるだろう。
だが、人が持っている「防衛本能」を探ることは、他の人に対してはできないだろう。姉妹に対しては姉として理解してあげていないといけないと思っているが、他人であれば、土足で踏み入ってしまうことになるからだ。
作品名:隆子の三姉妹(前編) 作家名:森本晃次