隆子の三姉妹(前編)
おじさんの手が、時々止まった。ちょうどいいところで止まったのはどうしてなのか分からなかったが、その時に、おじさんが困ったような表情になったのを洋子は見逃さなかった。
その時のおじさんに罪悪感があって、それが指を鈍らせたわけではない。おじさんの中にある独占欲と、洋子が感じた独占欲がぶつかったのだ。
「この娘は、今までの女の子とは違う」
と感じた。
その瞬間、洋子は急に恐怖に襲われた。
それは、おじさんが他の女の子のことを思い出し、洋子と比較したからだ。
「おじさん?」
洋子は無言の空間を切り裂くように、声を掛けた。
「えっ?」
声を掛けられることをまったく予想していなかったのか、その時の驚きの表情は、それまでのおじさんの顔とはまったく違っていた。
またしても、洋子は恐怖を感じた。今度は、おじさんと二人きりになっていることへの恐怖だ。
それは逃げられないところに自ら足を突っ込んでしまったことへの恐怖で、さらに身体を触られて感じてしまったことへの自己嫌悪であった。
自己嫌悪など、それまでの洋子は感じたことはなかった。不安に思ったり、自信を持てないこともあったが、それで自分を嫌いになったり、自分に対して疑問に感じたりすることがなかったからである。
さっきまで自分が何を感じていたのか、思い出そうとした。その時に思ったのが、独占欲だった。
自分が独占欲を持った瞬間、おじさんの顔が変わった。そして、初めて恐怖を感じたのだという流れをその時洋子は分かっていた。
思ったよりも冷静だった。
おじさんはそれ以上何もしてこなかった。胸を触られたわけでもなかったが、洋子にとっては、忘れることのできないことだろうと思ったが、
「思い出さないようにすればいいんだ」
その時の洋子は、忘れることと、思い出さないようにすることが違っていることを分かっていた。時々その思いを忘れることもあったが、成長するにしたがって変わらない思いの一つになってきたことを自覚するようになっていった。
おじさんとは、それ以来会うことはなかった。
――きっとおじさんが避けているんだわ――
と思うようになったが、おじさんが他の街に引っ越して行ったことを聞いたのは、かなり後になってからのことだった。
洋子の中では、トラウマではないと思っている。たまに思い出すことはあるが、それを「少女趣味の男性から悪戯された」
という意識ではなくなっていた。
初めて大人の男性を感じた瞬間であり、独占欲が恐怖を呼んだのだという意識くらいしか残っていない。断片的にしか覚えていないようにしようという意識を持ったことで、うまく記憶を封印できたのだと思っている。
洋子の中にある防衛本能は、その時に培われたものだ。
思ったよりも冷静だった洋子は、トラウマを感じるかわりに、防衛本能を身につけた。
ひょっとすると、洋子の防衛本能は他の人から見れば、短所にしか映らないかも知れないが、それを洋子は長所だと思っている。長所だと思うことで、おじさんに感じた恐怖心を封印できると思ったからなのかも知れない。
洋子は蹂躙されたわけではなかった。それに相手もその時だけで、それ以上、洋子を求めようとはしなかった。相手からすれば、洋子が想像していたような少女ではなかったのかも知れない。
洋子はそのことをまず感じた。
――私って、人の想像を絶するような性格なのかしら?
そう思うと、今まで接してきた相手と、同じように接することができなくなった。
同じように接しているつもりでも、相手によって感じ方が違っている。
「洋子ちゃん、最近冷たくなったわ」
あるいは、
「何か慎重さが加わったみたいだ」
と、人によって違っている。
特に男の子に対してと、女の子に対しての態度が変わったのは自分でもよく分かっている。女の子に対しては冷たく感じられるかも知れないが、男の子からは、よそよそしいと感じられるようになった。どちらにしても、あまりいいイメージではない。
では姉妹に対してはどうだったであろうか?
姉の隆子に対して、態度を変えた気がしなかった。姉に対して見方が変わったという感じがしなかったからだ。
姉は思春期真っ只中で、日に日に大人になって行くのを感じていた。最初は意識していたが、話をするたびに大人になっているのを追いかけるのも疲れてくる。そんな相手を必死になって追いかけても、余計に疲れるだけだ。割り切ってしまえば、それ以上追いかけることもない。
妹に対しては。今度は追いかけられる方だ。
妹のしつこさは、その頃から感じていた。
由美は、姉の隆子に比べれば、自分の方によく似ている。雰囲気もそうだが、考え方も似ているのではないかと思う。もっともそんなことを口にすれば、妹は怒り出すことだろう。もし自分が妹の立場でも、その時の洋子に似ていると言われると、その人に対して、苦虫を噛み潰したような何とも言えない嫌な顔をするに違いない。
洋子が姉に対して、優位性を感じるようになったのは、まだ少し後のことだったが、その前兆を感じたことがあったとすれば、それはこの時だったように思う。
姉に対して、どこかじれったさを感じていた。
一度、女王様気分を味わい、しかも、大人の男性から悪戯されたという感情を持っている洋子は、その時初めて、姉の隆子も、自分を女王様のように思っているところがあると感じた。
洋子が感じた女王様のイメージとは少し違い、隆子の感情はまだまだ妄想の域を出ていなかったが、それでも、洋子から見れば、
「甘い妄想」
にしか見えないのだ。
妄想は被害妄想に繋がっていた。
女王様と言っても、それはまわりからちやほやされる女王様ではなく、どちらかというと、まわりから妬まれるだけの貧乏くじを引いた女王様である。まわりからの妬みが被害妄想を呼び、本当に女王様となってまわりを蹂躙している気持ちにでもならないと、感情が二つに分裂したままの中途半端な感受性を持って成長することになる。
隆子が時々不安に駆られるようなことがあった時、必要以上に洋子を意識して、洋子の視線に自分への優位性を感じるようになったのは、一度本当に女王様気分を味わった視線を感じたからであろう。
隆子と洋子、二人の間には、微妙な平衡感覚が存在していた。
お互いに意識しながら、平衡感覚を崩さないようにしていた、どちらかが崩すようなことになると、姉妹としての二人の関係はそれまでとは違ってくるだろう。
どこから崩れるかによっても違ってくる。
その違いは崩れる場所によって、微妙に違ってくるのだろうが、最初に思春期に突入しているのは隆子の方であって、まずは近づくよりも先に、性格的には一度遠ざかっている。そして、今度は同じ道を妹の洋子が駆け抜ける。隆子にとっては気が付けば、後ろに洋子の気配を感じ、ビックリさせられた表情が目に浮かんでくるようだった。
ただ、洋子は性格的には思春期の成長の影響をモロに受けた。しかし、肉体的にはさほど成長したわけではなかった。
作品名:隆子の三姉妹(前編) 作家名:森本晃次