隆子の三姉妹(前編)
それは躁鬱状態にも言えることだった。
由美は、それまで躁鬱症にかかったことはなかったが、姉のうちのどちらかが躁鬱状態に悩まされていることに、もう一人の姉よりも先に気付くことになるが、それも、パニックを乗り越えることができたことで、感じることができるようになったのだろう。
由美が大学進学を辞めた経緯はそのあたりになるのだが、彼は無事に現役で志望校に合格できた。
「どうして、君は受験しなかったんだい? てっきり一緒に大学に通えると思っていたんだけど」
と言っていた。
由美のパニックを知らない彼は、当然そう思うだろう。同じ時期、彼も人のことに構っていられないほど、必死で勉強していたのは分かっている。実際、彼の成績では合格は五分五分と言われた。下手をすれば、ギャンブルだと言われかねない確率だったくらいである。
「おめでとう。本当は私も一緒に進学したかったんだけど、ごめんね。私は挫折しちゃった」
と、言っておどけてみせた。それでも由美が同じ街の会社に就職することを聞くと、
「いつでも会おうと思えば会えるね」
と言ってくれたが、それは彼と見ている方向の違いから、信憑性を感じなかった。
大学生である彼の余裕と、社会人になった自分の生活を考えれば、どちらが遠い距離に感じてしまうかは一目瞭然である。
――やっぱり、住む世界が違うのよ――
と、自分が彼のことをまだ好きなのかどうなのか分からないまま、自分に言い聞かせていた。
家を離れ、姉たちの部屋に転がり込んで、社会人として新しい生活を始める。そこには希望と不安が渦巻いていたが、不安の方が大きな出発だった。
しかし、それは自分の中でいろいろ考えている中で導いた結論の先にあるものだ。そう思えば、彼との思い出は、本当に記憶の中に封印するのが一番だと思っている。
由美の中には開き直りと、不安の中から乗り越えた自信とが意識の中にあった。そのことを二人の姉は知らない。ただ、由美が初めてこちらにやってきた時から考えると、比べものにならないくらい落ち着いていることは、実感として分かっていることだった。
姉たちから見えた由美の五月病は、他の人の五月病とは違っていた、一人でいろいろ考えている時期だったというだけで、由美が内に籠ってしまった時、他の人に比べて、特にまわりの侵入を許さない壁の厚さは尋常ではなかった。
まわりから五月病に見えたのも仕方のないことで、時期が五月病の時期と重なったというだけで、由美の中では悩んでいたわけではなかった。
しいていえば、
――由美が自分一人の時間をいかに過ごすかという確固たる意識を持つことができるようになった時期――
と言えばいいだろうか。
他の人から見れば孤独に見えることも、由美の中で孤独とは無縁の時間を過ごしていることを他の人には分かるはずもない。
それは由美が自分で意識して作り上げたものだった。
一人という時間をいかに大切にすることができるかということを、由美は大前提として考えていた。しかも、姉二人との生活の中でである。姉二人に自分が孤独であることで、苦痛を感じているなどと思わせないようにするための感覚だった。
苦痛でもないのに、まわりが変に気を遣ってくると、必要以上に意識してしまうのが、今までの由美だった。三人姉妹の末っ子だという意識があったからだが、今はそんな感覚を感じないようにしている。
――私は姉たちの足を引っ張らないようにしながら、一人の時間を大切にしたい――
と思うようになった。
バーを見つけたのはそんな時期で、本当は隠れ家のように誰にも言わないようにしようと思ったが、姉たちに教えたのは、その中でも自分だけの空間を感じることができる店だったからだ。
それからしばらくして、由美が少しずつ変わっていった。
変わっていったというよりも、本性が現れたというべきなのか、今までが猫を被っていたのだろう。あまりにも素直すぎて大人しすぎた。そのことを、隆子は意識していた。
洋子も由美のことを気にしていたが、本性を現すことは最初から分かっていたことのように、当たり前のこととして受け止めていた。仕事では真面目にやっているようだが、家に帰ってきてからは、ずぼらなところが見え隠れしていた。
たとえば、部屋の中での服装も、シャワーを浴びた後、下着だけでウロウロすることが多くなったり、女性としての恥じらいを忘れてしまったかのような振る舞いに、隆子は何とか由美の心境を探ろうと、注意をしながら様子を見ていた。
由美はなかなか自分の心境を表に出すことをしない。元々自分の気持ちを人から探られないような態度を自然とできるタイプなのかも知れない。それは持って生まれた性格というよりも育ってきた環境によるものだろう。苛められっこなど、習性で人から探られないように、殻に閉じこもるくせが自然とついてしまうものなのだろう。
「もう少し、女の子らしくすればいいんじゃない?」
と、わざと他人事のように隆子は聞いてみた。
「そうね、お姉さんの言う通りだわ」
と、答えていたが、そこには何か投げやりなところがあった。隆子は由美の様子を見て、何か張りつめていた糸が切れてしまった状態を想像した。凧の糸であれば、風に煽られてどこに飛んでいくのか分からない。しっかりつなぎとめておく必要があるのではないかと思った。
「由美は、失恋でもしたのかしら?」
と、隆子は洋子に由美のことを相談してみた。隆子が思っているよりも、洋子の方が由美のことを分かっているかも知れないと思ったのだが、根拠があったわけではない。
「失恋と言えば、失恋かも知れないわね。でも、私が考えているのは、あの娘がフラれたわけではなく、自分から相手の男に愛想を尽かしたんじゃないかって思うところなのよ」
「あなたは、由美が誰か男の人と付き合っていたのを知っていたの?」
「幼馴染の男の子が、大学進学でこの街に来ていることは知っていたわ」
「由美から聞いたの?」
「ええ、ふとしたことで教えてくれたのよ」
と洋子は言ったが、由美はそう簡単に自分のことを人に話すことはない。由美は洋子に話さなければならない状況だったに違いない。
隆子は、由美に対して自分が優位であるということに、最近気付き始めた。しかも、由美は自分よりも優位に立っている相手と親密になる習性があるようで、幼馴染の男性の優位性に惹かれていたことも分かっていた。最終的には、彼と別れたわけだが、やはり大学生と社会人の間では、一度距離が離れてしまうと、その距離を埋めるには、お互いに歩み寄る必要があるのかも知れない。
由美の方からは少しでも歩み寄ろうという努力をしていたのだが、彼の方には歩み寄るだけの気持ちが欠けていた。その気持ちは、実は子供の頃からあったのだが、そのことに由美が気付いていなかった。それは彼の中にある優位性が由美の中で劣等感となって芽生えたことで、見る方向が一方だけしか見ることができなかったのが一番の原因だったのではないだろうか。
作品名:隆子の三姉妹(前編) 作家名:森本晃次