短編集53(過去作品)
「なあに、心配することはないさ。案外短気な人の方が釣り人口は多いって言うぞ」
「そうなんですか?」
「ああ、俺も短気なところあるしな」
言われてみれば、先輩も短気なところがあった。普段は別に普通なのだが、時々、何の脈絡もなく起こりだすことがある。
――なぜ、ここで――
と思わないでもないが、先輩の中のどこかで許せないところがあるのだろう。短気というのとは違うのかも知れないが、個性と思えないわけでもない。ただし、それも贔屓目に見てのことである。
夫婦生活を営みながら、個人個人では趣味を持っていて、考えようによっては、贅沢である。
会話は相変わらずではあるが、精神的にはかなり落ち着いている。もちろん、離婚を考えていた時期がないではなかったが、今ではそんなことも考えない。
倦怠期という言葉があるが、倦怠期だとも思っていないし、それよりも、お互いの成長期に思えて、それなりに楽しいものなのだと考えていた。
当分、子供はいらない。二人だけの生活をエンジョイしたい。本当にこれでいいのかは分からなかったが、現時点では、一番いい夫婦関係に思えた。
離婚の原因にはいろいろある。
趣味もなくお互いに精神的な拠り所がないために、苦しくなって離婚する例、または熟年離婚にあるように、お互いの趣味や夫婦生活以外のところでの自分の生活を大切にしたくて別れる例もないわけではない。
要するに、何が原因になるか分からないのだ。それを今から怖がっていても仕方がない。とりあえず、今できることをやっておきたいと考えるのが一番ではないだろうか。
形だけの夫婦生活になってしまいそうで、少し寂しさがあったが、それでも、夫としてしておかなければならないことだけはキチンとしておきたかった。
精神的なこともあるだろう。
誕生日には必ずプレゼントを買ってきたり、外食に誘ってみたり、お互いが新婚当時に戻れる日が、一年にいくつかある記念日であった。結婚記念日しかり、朝井は決して忘れることはなかった。
怜奈にしても同じだった。二人の記念日を忘れてはいない。それが離婚を考えることなどありえないと思わせていた。
精神的なものというよりも、実質的なものも忘れてはいない。
保険もしっかり掛けている。
「そこまでしなくても」
と怜奈に言われるほどの金額を死亡受取人を怜奈にして掛けたりした。
――これも夫婦間の礼儀であり、何よりも自分の気持ちだから、これでいいんだ――
と思っていた。
愛という言葉さえ考えなければ、これ以上の夫婦生活はないであろう。
――愛という言葉――
そういえば、しばらく考えたこともない朝井だった。結婚前だって、どこまでの愛があったかなど、その時のことは思い出さない。ただ、一緒にいて楽しかった思い出だけが頭をよぎるだけである。
そういえば、一度結婚記念日を忘れたことがあった。あれは去年だっただろうか。その時の怜奈の顔が何とも言えず忘れられない。
怒っているわけでもなく、悲しんでいるわけでもない。どちらかというと苦虫を噛み潰したようなやり切れないような表情で、ひょっとして、情けないと思っていたのではないだろうか。
少しだけその時の怜奈の表情が頭から離れない時期があったが、二、三日もすれば忘れていた。その頃になると、何がいつのことだったか分からないくらいに毎日の生活に感覚が麻痺していたように思える。
それからどれくらいの月日が経ったのだろう。出会い頭というのは恐ろしいもの。朝の出勤時間帯、角を曲がろうとしていた時、目の前から猛スピードでやってきた車に朝井は吹っ飛ばされたのである。
もちろん、即死だった。悪質な轢き逃げで、現場は住宅街に入る前の人通りの少ないところ、目撃者もおらず、犯人が見つかる公算はハッキリ言って、少なかった。
しめやかな葬儀が行われ、怜奈は夫に先立たれた不幸の未亡人になるのだが、そこは持って生まれた気丈な性格で、葬儀を乗り切った。
「何とも気丈な奥さんですね」
参列者からも話しかけにくい雰囲気があったが、それは気の毒だというよりも、話しかけるに及びない雰囲気があったからだ。
――何とも殊勝な妻――
それが怜奈だった。
死んだはずの朝井だが、怜奈を遠くから見つめている。
――俺は死んだんだ――
夢を見ているようで、夢ではない。ハッキリと分かっているくせに、なぜ自分の葬儀を意識できるのか分からなかった。
自分を轢いた犯人の顔がおぼろげであるが分かったように思う。顔が分かったというよりも眼つきだけであった。ただ、その眼つきはもう一度見れば分かる気がする。もっとも、あの時のような鬼気迫った表情を普段からしているとは到底思うことはできない。
葬儀の途中で中座する怜奈。
「奥さん、さすがに一人になりたいんですね」
ヒソヒソ話が聞こえてくるが、誰もが怜奈には同情的である。
当たり前のことで、朝井が弔問客の立場でも、怜奈の気持ちを第一に考えてしまうだろう。夫に先立たれた未亡人。これからどうしていいのか、悩んでいることだろう。
そこへ、朝井の同僚である桃井がやってきた。
「一人にしてやってくれよ」
朝井は聞こえるはずもない声を出したが、桃井は構わず、怜奈の部屋へと向かう。
「奥さん」
「桃井さん」
二人の間の空気は異様であった。朝井には信じられない空気が漂っているが、その空気の意味はすぐに分かった。
――どうしてなんだ――
甘い空気は今にもこの場から立ち去りたい気持ちにさせた。幽霊である自分がどこにでも出没できそうなはずなのに、その場から立ち去ることができない。見たくもない光景を見せられる辛さは、
――いったい俺が何をしたというのだ――
と自分への戒めに変わる。
一部始終を見終わると、恐ろしさで身震いした。
――二人が共謀して俺を殺したんだ――
と考えると、復讐に燃える自分を感じていた。
桃井への復讐よりもまず怜奈への復讐。それだけが頭にあった。すべては怜奈の罪に思えてならない。
誰かの身体を借りなければならない。しかし、普通に生活している人の身体を借りるわけにはいかない。生活があるからだ。
――そういえば――
会社へ行く途中の公園にひっそりと気配を消すように暮らしているホームレス。彼らに目をつけた。同じホームレス連中でも、まったく干渉することもなく、ただ本能の赴くままに過ごしている。彼らのうちに一人に目をつけた。
露骨に近づくわけにはいかないが、怜奈がホームレスを意識するはずもない。いつも目を背けていたからだ。
朝井の四十九日の法要も済み、少しばかりの生活を営み始めたように見えている怜奈だったが、その実、週に一度のペースくらいで桃井と密会していた。それだけは分かっていた。
公園でいつものように怜奈を見張りながら、
――どうやって復讐してやろう。尋常な復讐では物足りないな――
と思っているところへ、怜奈の視線がこちらを意識しているのに気がついた。
――まさか、俺だって分かっているのかな――
作品名:短編集53(過去作品) 作家名:森本晃次