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短編集53(過去作品)

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 仕事に余裕を感じることができると、他の面でも精神的に余裕が生まれる。期待していることが現実になるのではないかという信憑性はないが、そう考えるだけで楽しみになってくる。
 初めて立ち寄った駅裏のスナック。それまでスナックなど行ったこともなかったのは、いくら掛かるか分からないからで、大したこともない店で、想像以上の金を取られては、翌日にまで余韻が残ってしまって、やり切れない気持ちになると思ったからである。
 精神的に余裕のある時は、少々大したことのない店であっても、後を引くことはないだろうと思えた。もし、大したことのない店であれば、却って勉強にもなるというものである。どちらか分からないというのも、ドキドキして楽しいものだ。
 店の扉を開くと、一瞬、
――これは大したことのない部類かな――
 想像以上に暗い店内は、想像以上に狭かった。カウンターに五、六人くらいしか座ることができず、テーブル席も二つほど。その時は狭く見えたものだった。
 客はいなかった。
「いらっしゃいませ」
 奥から女の子が慌てて出てきたが、赤ら顔に幼さが残ったその顔は、スナックのカウンターにいる女の子にしては、あどけなかった。
 手にはお絞りが握られていて、
「初めてのお客さんですわね」
 笑顔だけがあれば、それ以外には何もいらないと思えるほどの貴重な笑顔に思えた。会社でもこれほどの笑顔をすう女の子を見たことがない。営業スマイルも多分にはあるだろうが、それだけではないような気がした。
 カウンターの奥にはグラスやウイスキーが綺麗に置かれていて、カラフルに彩られている。
「じゃあ、ビールでも」
 おつまみを出してくれて、コップにビールを注いでくれる。したこともないくせに、まるで家で晩酌をしているかのようだった。
 話題性に事欠かない朝井は、彼女に歴史の話を始めた。まだ学生に近く、いや、ひょっとして昼間はまだ学生でもしているのかも知れないと感じる彼女だったので、歴史の話でも裏話ともなれば興味を持ってくれるに違いないと感じたからだ。
 彼女も歴史には造詣が深いようで、話を興味深く聞いてくれる。頷いている姿は仕事上なのか、それとも本当に興味深く聞いてくれているのか、まだまだ夜の世界を知らない朝井だったが、気持ちはしっかり聞いてくれていると思っていた。
 その日、ママさんは九時過ぎくらいに出勤してくるということなので、一時間近く彼女が一人になるということだった。
 名前を咲江という。こういう店の女の子の名前としてはいささか地味であるが、本人の希望ということだった。
「本名はもっと地味なんですけどね」
 と言って笑っていたが、
「あまり派手な名前にすると、本当に自分じゃなくなってくるような気がしてですね」
 こういう店で本名を名乗る名乗らないは自由なのだろうか。そのあたりも分からなかった。
「でも他のお客さんは本名だと思っているかも知れませんね」
 笑いながら話している。
 少しすると、扉が開き、一人入ってきた。扉が開いた瞬間、
――せっかく二人きりだったのにな――
 と残念な気分になってしまった。すぐに顔に出てしまうタイプの朝井は、きっと露骨に嫌な顔をしたことだろう。まるで苦虫を噛み潰したような顔とは、その時の顔のことをいうのかも知れない。
「こんばんは」
「あ、いらっしゃい。久しぶりね」
 咲江はその人を知っているようだった。
 浅いが振り向いたその時に一瞬目を疑いたくなるほど、何度も瞬きをしたが、それは、入り口から入ってきたのが女性であるからではない。その女性の顔が咲江にそっくりだったからだ。
 光の加減も幾分かあるだろうが、最初に店に入った時に感じた咲江を、そのまま感じていた。
 しかし、シチュエーションはまったく逆である。
 入り口からカウンターを見下ろす雰囲気で見た角度と、今度はカウンターに腰掛けて入り口に立っているのを見上げているのだから、光の当たり方も違うだろう。まったく逆のシチュエーションで同じに見えたということは裏を返せば、完全に同じではないということの証明であった。
 だが、一瞬の閃きだけで似ていると感じたということは、実際にも似ていると言えるだろう。何度か瞬きするうちに、次第に彼女の特徴が分かってくるが、顔の輪郭や目や口のパーツを見る限りでは似ているが、雰囲気は少し違っている。
「姉なんです」
 咲江は躊躇することなく話してくれた。
――なるほど、姉妹と思って見れば、似ているところもたくさん感じることができる。輪郭やパーツが似ているのは当たり前だ――
 と感じた・
 彼女は、朝井の隣に腰掛けた。他にも席は空いていたが、意識して座ったように思えた。
「私には水割りを」
 妹は姉の注文に手際よく答える。手つきを見ていると、完全に慣れたものだった。
 初めて入ったスナックで、この雰囲気は少し異様だと思えたが、悪い雰囲気ではない。飲み屋というと、会社の同僚と行く居酒屋しか知らないので、人目を憚ることもなく大声で楽しそうに話している雰囲気や、数人で世界を作っている集団の、話題といえば上司や会社の悪口。それが居酒屋の雰囲気だと思えば、嫌でもなかったが、そうそう長い時間耐えられるものではない。聞いていて疲れるだけだった。
 しかし、初めてのスナックで、女性二人がいると、華やかな気分にもなるというもの。話を内容を聞いていると、姉の方は近くの会社でOLをしていて、妹の咲江は、昼間大学に通いながら、夜アルバイトでこの店に入っているようだ。
「実は私もここのカウンターに立っていたことがあるんですよ」
 姉の方がニコヤカに話してくれた。
「そうだったんですか。やはり学生時代に?」
「ええ、そうなんです。結構楽しかったですよ」
 朝井は、
――なるほど――
 と感じた。
 彼女は妹思いの姉であることが分かる。
 自分が働いていたお店の雰囲気がよかったことと、よほどここのママさんができた人で、妹を任せることのできるタイプの女性なのだろう。それを分かってはいるが、それでも心配になる。だから、こうやって時々顔を出してあげているに違いない。
 勝手な想像ではあったが、当たらずとも遠からじかも知れない。その証拠に咲江の姉を見る目が尊敬の眼差しに感じられる。
「おねえさん、こちらのお客さん、結構物知りでいらっしゃるのよ。お話も楽しいわ」
 そう言って、紹介してくれた。いきなりの振りであったが、悪い気はしない。それでもさすがに恥ずかしさもあってか、
「いえいえ、そんなこともないですよ」
 となるべく平静を装ってみたが、どう写ったであろうか。
「私もお話に加えていただきたいわ」
 アルコールもまわってきていたので、少し饒舌になっていた。時間を感じることもなく、得意の歴史に関してのウンチクを傾けていると、すぐに入り口が開いて、ママさんがやってくる。
 せっかくの話に水を差されて少しがっかりだったが、
「続きをぜひまたお聞かせください」
 と耳元で囁かれると、くすぐったさから全身が震えた。まさしく初めての感覚であった。
作品名:短編集53(過去作品) 作家名:森本晃次