短編集53(過去作品)
現実で見たことが、そのまま夢になって現れるのであれば分からなくもないが、夢だという意識はまったくない。しかも同じ日を二日続けて繰り返しているという感覚ではなく、
――これは何年か前にも同じことがあったぞ――
と思うことだった。
道ですれ違う人を見つめることなど、普段ではまったくないのに、何年かに一度、すれ違う人が気になって仕方がない時がある。それは、
――前にも見た光景のように思えて仕方がない――
と感じるからで、その根拠がどこから来るのか、いつも分からないでいた。
その時に、
――同じ日を繰り返しているんじゃないだろうか――
と感じるのであって、次の日にはまったく感じない。一日をカレンダーで意識する時などに多いようだ。
意識の中にコロンの匂いと桜の花びらが強烈な印象として残っている。それを感じる時誰かに見られていると感じていたのだ。人の目をあまり気にしない正治だったが、無性に人の目が気になるのはそれまでの反動によるものに他ならない。
正治は縁起を担ぐ方だった。ジンクスも信じているし、悪い縁起は特に気になる方だった。
いい縁起はジンクスとして考え、例えば、朝靴を履く時はどちらの足からなどという一般的なジンクスは自分なりに持っていた。そのために、同じことを繰り返していると思うのは、ジンクスに対しての感情であって、それも仕方がないことである。
三年後にまた同じような光景を見たと思うのも不思議なことだった。夢であったら、それがいつの夢だったのかハッキリしない。昨日見た夢だったのか、それとも数年前に見た夢だったのか分からないくせに、その日の感覚は明らかに三年前だと分かっている。
確かに引っ越してきてからすぐに見た感情だと思っているからなのかも知れないが、それだけで説明のつくものではない。
確かに匂いを感じる。コロンの匂いに、桜の花の匂い。春という時期は、空気が甘く感じるもので、暖かさが塵を巻き上げているが、塵にすら、甘い香りが染み付いているようだ。
正治は喫茶店で、思い切ってその女性に声を掛けた。
普段は、小心者で声など掛けられない。もし、声を掛けて相手に変な目で見られたら、それ以降は会話ができなくなってしまう。その場のぎこちなくなった雰囲気は、寒さを誘い、まわりにも十分気付かれてしまう。気まずい雰囲気を作ってしまっては、もうその場にいるわけにはいかない。
――次の日から来れなくなってしまうのは嫌だ――
小心者というよりも、この思いが一番強いのだ。
だが、元々は自信過剰なところがある。
「自分に自信がないよりも自信過剰なくらいの方がちょうどいいのさ」
という友達がいたが、その意見には賛成だった。
「自分に自信が持てなくて、人を説得できるわけなんかないよね。相手にしても不安そうに話をされても困惑してしまうだけだからね」
こういう話をするのは好きだった。学生時代などは、一人暮らしの友達の部屋に酒を持ち込んで、夜を徹して話すことがあったくらいだ。
酒は決して強い方ではないが、夜更かしのハイテンションの時に呑む酒で眠くなることはなかった。話が終わると反動で爆睡してしまうのだが、それまでは却ってアルコールは集中力を高めてくれる。
アルコールが深まる中、話をしている時も、
――いつもこんな話をしているような気がするな――
と感じる。それだけ自分についての話をしている時の自分は普段の自分と違うという意識があるからだろう。
自分について語るには、自分を客観的に見る必要がある。それを分かっているから、自分について語るのが好きになる。だから、時々自信過剰な自分が顔を出すのだが、逆の自分がそれを戒めようとする。
自分の中の葛藤が、女性に声を掛けることを思いとどまらせているに違いない。
普段、表に出ている自分は必ずどちらかの自分である。就職してからは、完全に自信過剰な自分が表に出ていて、時々それを戒めるために、反動が起こる。世間一般に言われている「五月病」というのは、反動によるものだと思っていたが、正治の場合は、自信過剰の反動である。他の人もすべてがそうだとはもちろん言えないが、少なくとも、正治のそばにいる人たちは、自信過剰の反動を持っていた。
アルコールが入ると、鼻の通りがよくなる。それまで感じなかった匂いを感じるようになる。しかし、アルコールが覚めてくると、今度はアレルギー性鼻炎のように鼻が詰まってくる。実に困ったものだ。
そんな時、鼻がムズムズしてくしゃみが出てくる。それは鼻が詰まっている時に多い。それなのに、三年前にくしゃみが止まらなかった時は、鼻の通りはよかった。何しろ鼻の匂いもコロンの匂いも感じ取ることができたからである。
花の香りに女性を思い出す。しかし、三年前に見かけた女性に感じたのは、コロンの匂い。そこには男性を感じさせる雰囲気があったからかも知れない。学生時代までの正治は、好きになった人に男性の影があれば、すぐに諦めていた。
――自分に立ちうちできない――
という思いと、
――強引に奪っても、自分が後悔するかも知れない――
という思いが交差していた。
強引に奪うことは紳士としてのイメージには合わない。それに強引に奪ったとしても、相手の気持ちを繋ぎとめておくだけの技量が自分にはないと感じていた。強引に奪って技量がないでは、あまりにも無責任というものではないだろうか。
朝からの頭痛は、コロンの匂いが及ぼしたものに違いない。鼻の通りがいい時と、悪い時とでは頭痛の種類が違う。その日の頭痛は明らかに鼻の通りの悪い時のものだった。頭痛がする中で、正治は女性に声を掛けた。いかにも自信の固まりのような雰囲気を自分の中に感じながらである。
思い出そうとするとさらに頭痛を感じる。頭痛を感じると誰かに見られているように思うのだ。
――夢なのかも知れない――
と感じたが、如何せん、匂いを感じることで、夢ではないと断言できる。夢の中で匂いなど感じるはずがないからだ。
色にしてもそうである。桜の鮮やかな色は、真っ暗な背景が浮かび上げている美しいピンクである。どちらも夢では考えられない。
しかし、それが先入観に繋がっているのではないだろうか。自分の中で夢だという意識があるから、平気で女性に声を掛けられる。
――もしうまく行かなくても、どうせ夢なんだ――
と感じるはずだと思っている。
誰かに見られているという意識、それは夢の中特有の意識だった。
以前見た夢で、誰かに見られている夢を見て、次第に恐怖を煽られる夢だった。言い知れぬ恐怖心が襲ってくるが、自分を見つめている人物に心当たりを感じると、恐怖が最高潮に達する。
――ああ、自分じゃないか――
寝ているところへ隣の部屋からドカドカと入ってきて、自分の上にのしかかってくる。のしかかってこられた時が怖いのではない。ドカドカと入ってくる時に背中に感じた地響きが一番恐ろしかった。
作品名:短編集53(過去作品) 作家名:森本晃次