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短編集53(過去作品)

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 散ってしまった花びらが汚く見えるのは、そこに雨が降るからである。その年は珍しく、桜の咲く時期にあまり雨が降らなかった。そのかわり、風の強い日が多かったような気がする。気温としてはそれほど暖かくなく、夜桜には耐えられないほどの寒さではなかっただろうか。
 花びらを見ながら空を見る。しばし、空に焦点を合わせると、遠近感が取れなくなる。桜が手に取れる距離に感じられるが、決して触ってはいけないものである。
――そういえば恋愛に似ているな――
 それまで恋愛経験といえるものがほとんどなかった正治だったが、それだけに憧れは人一倍である。
 憧れというか、妄想に近いかも知れない。二十歳代後半になろうかというのにほとんど恋愛経験のないことを気にしていない方がおかしい。しかし、それでもトラウマになることがないのは、
「お前は、三十歳近くになってくればもてそうだな」
 と大学時代の友達に言われたことを信じているからだった。
 高校時代までは、幼顔だった。どちらかというと女性っぽさが出ているところがあって、声変わりも遅く、あまり男の友達と一緒にいることもなかった。
――女性ホルモンが多いのかな――
 と感じるほどで、男性の視線に気持ち悪さを感じた。
 それはまるで化け物を見るような視線だった。だが、本当に嫌だったのはまわりの視線ではない。鏡を見た時の自分の顔が、まわりの人たちの見せる視線と同じものであるからである。
――鏡って、本当に真実を写し出しているのだろうか――
 と考えるようになったのもその頃だった。
 大学時代になるまで、そのコンペレックスが抜けなかった。トラウマというほどひどいものではなかったが、小学生時代にテレビで見ていたアイドルが、高校生になった正治に実に似ていた。そのアイドルが数年経って数年経って二十歳を過ぎる頃には、落ち着いた渋い俳優になっていたのだ。
――アイドルからの華麗なる転身――
 と注目を浴びたが、すぐに名前を聞かなくなるアイドルに比べれば素晴らしい人だった。
「お前は似ているんだよ」
 確かに小学生の頃に見たそのアイドルは子供心に気持ち悪さがあった。
――どうして女の子が夢中になるんだろう――
 と思っていたが、きっとその時にブラウン管に写っていた自分の顔は、高校生になって見た鏡の自分と同じ顔だったかも知れない。
 喫茶店に行く理由の一つとして、女性が来ていると、仲良くなりたいという下心もあった。その頃になると、自分にも自信が持てるようになり、何となく女性とも対等に話ができるような気がしていた。
 それまで彼女がいなくて出会いがなかった一番の理由は、自分が口下手で話をしたとしても、会話にならないと思い込んでいたからだった。
 実際に出会いもなかった。気持ちの上で引いてしまっていれば、当然まわりも相手にしないであろう。それは分かっているつもりだったが、ここまで出会いがないと、却って自信喪失に繋がり、悪循環であった。
 最初のきっかけが難しい。女性に対してどのように話しかければいいのか分からない。会社の事務員の女の子であれば気軽に話しかけられるのにどうしてなのだろう?
 理由は簡単である。話題の有無であった。会社であれば、仕事という共通の話題がある。しかも仕事での会話だという気持ちがあるので、変な意識などない。お互いに気さくなものだった。
 しかし、実際に相手と親密になりたいと思っていると、面と向って話す場合、どんな話をしていいのか分からない。友達との会話はスムーズだ。正治が主導になって話をすることも結構ある。雑学の本が好きで学生時代は読み漁ったこともあったので、話題性には事欠かない。
 馴染みの喫茶店を持ちたいというのは前からの思いだった。大学時代には馴染みの店があったとしても、一人ゆっくりできるところではなかった。必ず友達と一緒にいた。一人でいるのが寂しいわけではないのだが、一日の中での時間の優先順位を考えると、喫茶に行く時間は友達と一緒の時間に限られてしまう。それだけ会話が絶えなかったということの裏返しであろう。
 社会人になって、友達は皆散り散りバラバラ、遠くに赴任した人もいて、なかなか会えなくなっていた。
 もっとも大学時代の友達とは大学時代の思い出として取っておきたいという気持ちがないわけではない。仕事に慣れるまでは、皆必死だったこともあって、慣れてくると、今度はそれぞれの世界で生きている。学生時代の仲間に頻繁に会うということは、過去を振り返ることになりそうで、あまりいい傾向ではないように思えた。
 過去を振り返ることは嫌いではない。
 歴史が好きな正治は、
――過去があって現在がある。現在があるから未来がある――
 といつも思っている。
 どこを区切っても、そこには自分がいて、その時々のまわりの人々が薄い存在に思えてしまうことがあった。絶えず自分が成長していることを感じていて、知らず知らずにそれを誇りに思っているはずだ。過去のことを振り返るのは、現在の戒めがあった時、それ以外は、思い出としてしまっておけばいいとさえ思っていた。
 喫茶店に入ると、バラの香りがした。いつもは柑橘系の香りなのに、甘い香りに少し戸惑った。
 この喫茶店に来るようになって三年が経っていた。この街に引っ越してきてからすぐに見つけた喫茶店。それも今日のように川のそばにある公園を散歩していて見つけたのだ。
――あの時も桜が綺麗だったな――
 桜が散っているのを見ながら、コーヒーを飲んだのを思い出した。
 その時は他に客は誰もおらず、桜舞散る窓の外ばかりを眺めていた。店内はそれほど明るくないので、窓の外の明るさに目が慣れてくると、店内はまったく見えなくなってしまう。
 そのせいで、ずっと表ばかり見ていた。
 もちろん、散りゆく桜の花びらを見ながら、いい知れぬ感傷に耽っていたように思う。感傷に浸る何があったのか思い出せないが、嫌な思い出ではない。
 三年も経っているのだから、あまりいい思い出でなくとも、後から思い返せばそれほど大したことではないこともあるだろう。思い出せないということは、その時もすでに大したことではなかったに違いない。
 桜が舞散っているのを見ていると、遠くの方で遊んでいる子供がいた。子供は母親に近づいていくが、その母親の笑顔が、かすれて見えていた。
――これも思い出があるな――
 感傷に耽っていたとすれば、同じようなシチュエーションだったのかも知れない。
 子供は後姿しか見えないが、母親は、子供を満面の笑みで迎えている。広げられた手が大きく見え、二人の姿はストロボ撮影のように、スローモーションで、残像が残って見えていた。
 じっとその姿を見ていると、自分が小さかった頃のことを思い出していた。母親の胸に向って走っていく姿を自分に重ね合わせてみた。
 見ていた間はあっという間だったように思えた。その間に店の中では何も起こっていないはずだと思い、目を店の中に移すと、最初の予想通り、暗くて、ほとんど何も見えなかった。
作品名:短編集53(過去作品) 作家名:森本晃次