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短編集53(過去作品)

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 それが実現したのが、それから二年後のことだった。近くにできた喫茶店の常連になった正治は、そこで時々出会う女性を好きになったのがきっかけだったのだ。それまでは彼女のいない生活でも満足がないといえばウソになるが、大きな不満でもなかった。
 その日、朝起きて気がついたのは、
――今日は休みだった――
 ということだった。
 休みの日であれば待ち遠しい休みだっただけに、いくら目覚めで意識が朦朧としていても分かるはずなのに、その日は不思議と意識しないと分からなかった。
 学生時代や研修期間中と違い、仕事にも慣れてくると、自分のペースで進めることができる。確かに業務の都合で、相手のある仕事もあるが、それも慣れてくると、どれくらいの量の仕事なら、いつまでにこなせるか分かってくる。そうすれば精神的に余裕が生まれてくるのである。
 それまでは休みと言っても中途半端な気持ちで、気がつけば終わっていたというのが多かった。仕事に慣れてくると、時間を有意義に過ごすことの大切さが分かってきて、特に余裕のある時間の過ごし方を考えるようになったのが、それまでと一番変わったところかも知れない。
 休みの日には遅くまで寝ている時が多かった。研修期間中などは、休みというと身体の疲れを取るだけに専念していた。気がつけば昼過ぎていて、夕方近くになると、すでに翌日からの仕事モードに頭は変わっていた。
 だが、気持ちの余裕は休みの一日の幅を広げてくれた。遅くまで寝ているのがもったいなくなり、掃除などしたことのない部屋を掃除するようにもなった。
 一人暮らしで新しいマンションに移ったのも、いい機転になったようだ。気持ちに余裕が生まれても生活環境が変わらないと、なかなか掃除までする気にはならなかった。
 正治は大雑把なところがあり、繊細ではない。面倒くさがり屋でもあり、なるべく楽をする方向で頭は常に考えていた。
 休みの日に、気持ちに余裕を持てたのはいいのだが、元々の性格が大雑把なため、仕事では細かいミスをするのは日常茶飯事になっていた。それでも肝心なところは締めていて、大きなトラブルを起こさないのが正治の長所でもある。
「お前は焦るところがあるからな」
「そうなんだよな。それがなければもう少しミスも減るんだけどな」
 という会話をしたことがあったが、慌てる理由は本人には分かっていた。
――俺って忘れっぽいところがあるからな――
 誰にも話をしていないが、一緒に仕事をしている人には分かっていることだろう。
 忘れっぽいから忘れてはいけないことから先にしようとする。だから順番が若干狂ってしまったり、忘れてはいけないところまでを焦ってこなそうとしているために、細かいミスが絶えないのだった。分かっているだけに辛いところだ。
 だが、それでも三年目くらいからミスが減ってきた。上司からは、
「やっと落ち着いてきたんだな」
 と言われているが、きっと今まで仕事に慣れていないのが原因だと思われていたようだ。仕事に慣れるのはむしろ他の人たちよりも早いかも知れない。それも長所の一つだと思っていた。しかし、それでも忘れっぽいことを意識されるよりも、慣れていなかったと思われる方が今後のことを考えると都合がいい。正治は、誰にも明かすことのできない自分の弱点を認識していた。
 それでも今の住まいに引っ越したことで、それまで忘れっぽかった性格が少し緩んだような気がしている。
 性格がそう簡単に変わるものではないということは分かっているつもりだが、環境の変化が及ぼすものは、計り知れない効果を生むとも思っている。
 確かに不便なところではある。引っ越してすぐには通勤のきつさを身に沁みていた。
 駅まで歩いて三十分の道のりは、一日だけならまだいいが、それが毎日ともなれば結構辛いものがある。
 だが、慣れてみるとそうでもない。最初はあまり変化のない風景をひたすら歩くだけの道なので、苦痛を感じていたが、一度帰りに違う道を通ってみると、まったく違う光景が広がっていた。
 ほんの少し遠回りするだけでこれだけ違った光景を見れるとは思ってもみなかった。駅までは閑静な住宅街を抜けて、線路沿いの道をひたすら歩くだけだった。住宅街というのはキッチリと区画整理が行われていて、どこを曲がっても同じような風景だというのが一般的である。通勤に使っている道も類に漏れず、同じ風景が広がっている。知っている人でなければ迷ってしまうだろう。
 住宅街というと小高い丘になっていて、それが苦痛を増幅していた。しかし、それも一つ筋を変えることで、ほとんど起伏のない道を通ることができる。
 線路沿いの道も少し離れれば、川が流れていて、川向こうに建っている住宅を見ると少し小さくこじんまりとした佇まいに見えるのも新鮮だった。
 何よりも気分転換にはもってこいだったのだ。
 川の上流は、マンションの近くの桜が綺麗な公園の横にある川であった。最初は同じ川だとは知らなかったが、知ることでさらに新鮮な気分になれたのだ。些細なことが新鮮な気分にさせてくれる時期だったのかも知れない。
 休日の行動はある程度決まっている。
――同じような日ばかりを繰り返している――
 という意識を持たなかったのは、平日が充実しているからだ。
 休みの前の日、夜更かししても、起きる時間は朝の七時だった。最初は自分で朝食を作っていたので、表に出かけることもなかったが、会社への通勤路を変えたことで、一軒の喫茶店があるのを発見した。
 平日は立ち寄る時間もないので、一度も寄ったことがなかったが、休みの日になってさっそく立ち寄ってみることにした。日曜日も朝から開いていることは、確認済みであった。
 白壁の喫茶店には憧れていた。以前は郊外型の喫茶店もいくつかあったのに、最近ではほとんど見かけることはなくなった。なかなか常連客がたくさんいないと成り立っていなかないようだ。
 その点、今でも続けているということは、常連客をたくさん抱えているからに違いない。
 マンションを出て、少し歩いて川沿いにある公園の桜を見ながら歩いていた。目的地が喫茶店で、しかもお腹が減っているわりには精神的な余裕からか、桜をゆっくりと見上げながら歩いていた。
 その日は風の強い日で、拭いてくる風に煽られていたが、桜の葉が散っていくのを見ると、それほどの強さを感じない。
 まるでスローモーションでも見ているかのように風に靡くように散りゆく花びら、ずっと見ていても飽きを感じさせない。上を見上げながら歩いていると、時間が経つのも忘れ、公園の端まできていた。
――公園って、こんなに距離があったかな――
 と、それでも感じるのだから、よほどゆっくり見ていたに違いない。
 上を見ながら歩いていると、異がついたのは、空に雲ひとつないということである。
――抜けるような青空――
 という表現があるが、まるで桜の花びらが日の光を通してしまって、青さを吸収してしまっているのではないかと思えるほどだった。
作品名:短編集53(過去作品) 作家名:森本晃次