死がもたらす平衡
それは良枝宛ての郵便だったのだが、差出人を見ると、坂口裕二と書かれていた。
確か坂口というのは、学生時代に良枝が所属していた演劇部の部長をしていた男ではなかっただろうか。
そうだ、確かに坂口裕二という名前だった。友達として付き合っている時に、何度か坂口と会ったことがある。
学生時代には、坂口と良枝が噂されていたことがあった。二人が付き合っているのは事実だったが、それほど長い期間ではなく、三か月ほどだったと思う。吾郎は、坂口のことで良枝から相談されたこともあったくらいだ。もちろん、付き合い始める前のことだったのだが。
二人が付き合い始めた時期、そして別れた時期が、吾郎にはハッキリとしない。二人が付き合っていた時期もそれだけアバウトなのだ。ただ、二人が別れたであろうと思われる時期からしばらくの間、良枝と坂口の間が目に見えてぎこちなかった。それまでは、一番意見が合う相手としても、二人はお似合いのカップルで、誰の目から見ても、付き合っていれば、将来結婚しそうな雰囲気に見えたのだった。
良枝のことを考えていると、坂口の影が後ろから襲ってくるのは、大学を卒業してからもしばらくはあった。吾郎が良枝と付き合うことがなかったのは、吾郎の中に坂口のイメージがこびりついていたからだ。
だが、良枝が吾郎を意識しなかったのはなぜだろう? 仲のいい友達としてしか見ていなかったからなのか、それとも、仲のいい友達と、付き合い始めると、それまで築いた関係が崩れてしまうことが怖いのか。そのどちらかであろう。吾郎が思うのは、後者の方で、そう思ってくれていた方が、男としては嬉しい限りであろう。
郵便の中身を見るわけにもいかず、良枝に渡さないわけにもいかない。
「こんなもの見るんじゃなかった」
これも、良枝がいながら、由美との楽しい時間を知らない間に過ごしてしまったことへの報いなのかも知れない。見たくもないものを見てしまったことで、せっかく楽しかった至福の時を台無しにしてしまったことで、さらに坂口に対する恨みのようなものがこみ上げてくるのだった。
「ただいま」
玄関を開けると、いつもの暖かさが足元から溢れてきた。安心感に繋がる暖かさだった。――まるでウソのようだ――
手に握られている手紙を見て、そう思ったが、まぎれもない事実である。
「おかえりなさい」
声もいつもの良枝と変わりはない。何も変わらない帰宅風景であった。手紙を直接手渡しする勇気がないので、良枝がお風呂のお湯を確認してくれている間にキッチンのテーブルの上に置いて、吾郎は何食わぬ顔で自分の部屋に戻り、ネクタイを外し、着替えを始めた。
お風呂のお湯の確認は、毎日吾郎が帰ってきてからの、良枝の日課だった。着替えてすぐに風呂に入るのが吾郎の日課で、よく聞く、
「ごはんにする? お風呂にする?」
という会話は、二人の間では不要だったのだ。
キッチンからは、カレーの香ばしい香りがしてきた。ちょうど、カレーを食べたいと思っていたので、ありがたいと思い、食べたいものが何なのか、何も言わなくても、なぜか良枝には分かるようで、まるで予知能力でもあるのではないかと思うほど、食べたいものがいつも食卓に並んでいた。
吾郎が良枝と結婚して一番よかったと思うのが、
「痒いところに手が届くやさしさ」
だったのだ。
ただ、それが優しさなのかどうなのかは、分からないが、新婚の間くらいは、それを優しさとして受け止めてあげるのが、男としての懐の深さではないかと、吾郎は感じていた。
お風呂の湯加減もばっちり、どこも変わったところのない様子に、次第に自分の気にしすぎではないかと思うようになった。
さすがに差出人の名前を見てうろたえてしまったが、それは仕方がないことではあるが、だからといって、自分が心配しなければいけないようなことであるかどうかは、ハッキリとしない。
「サークルの同窓会か何かかも知れないな」
そういえば、自分たちも同窓会で再会したことを思い出していた。
演劇部と文芸部の合同の同窓会、あの一回きりだったが、それ以降、二人は同窓会に顔を出すことはなかった。ただ、招待状だけは、結婚前にも来ていたので、考えてみれば、演劇部だけの同窓会の誘いであっても不思議ではない。もっとも、結婚してからも吾郎は同窓会に顔を出す気持ちはないが、良枝はどうだろうか? ひょっとしたら、毎日の生活に変化を持たせたいとも思っているかも知れない。そこも少し気になるところだった。
だが、あまり気にしすぎるのもいけない。何よりもすぐに顔に出てしまって、良枝に気付かれて、気まずい雰囲気にならないとも限らないからだ。それを思うと、あまり気にしないようにした方がいいのかも知れない。
風呂から上がり、カレーを食べながら良枝を見ていると、別に会話があるわけでもない毎日、テレビを見ているつもりでも見ていない毎日、そんな毎日であることに気が付いた。
「どうしたの? 私の顔に何かついてる?」
良枝がこちらを振り向き、ニッコリ笑っている。
「別に何も変わりない毎日ですよ」
と言いたげな表情に見えた。
「いや別に」
と答えたが、それ以上はお互いに会話がなかった。
――こんな毎日を過ごしていたんだ――
吾郎の中で、何かに気が付いたような気がした。まさかこれが夫婦の危機になるようなことはないだろうが、不安ではあった。
――不安?
それがないのが、二人の間の関係ではなかったか。今までに抱いたことのない不安という感情。一体どうすれば拭うことができるのか。これも、隣の奥さんと話をしたということだけの報いなのか。吾郎は頭の中が混乱してきたのを感じた。
吾郎にとって、その日が何かが変わるきっかけになる一日になりそうで怖かった。普段であれば、良枝を抱きたくなる欲情が、その日は湧いてこなかった。欲情を感じようとすると、震えが走るのだ。
――罪悪感に苛まれているのか?
それほどのことをしたわけではないのに、今までの吾郎にはない感情の起伏、何かが動き始めているようで、その前兆が襲ってきているにも関わらず、分かっているのに、どうしていいのか分からない。そんな感情をどこにぶつければいいのか。まるでジレンマに襲われているかのように思えてならなかった。
次の日になると、吾郎はいつも通り出勤していった。
良枝はそれを見ながら、昨日届いた坂口からの手紙を開いてみた。
――この手紙、吾郎さんが帰ってきてからテーブルの上にあったけど、吾郎さんが持って上がってきたんだわ――
良枝は、やはり吾郎の危惧を分かっているようだった。だが、まさか今さら坂口のことを気にするような人ではないと思いたい。確かに学生時代に二人が知り合いだったが、付き合っていたわけでもなかったのだ。
良枝は昨日、吾郎が思っていたように、会社を休んだ。理由は今ここでは言えない。吾郎には知られたくないことだった。良枝は、坂口からの手紙を見て、何か皮肉めいた運命を感じずにはいられない。