死がもたらす平衡
それは、良枝が隣に引っ越してきた夫婦の、夫である茂を知っていたからだ。良枝が高校時代に、家の近くに住んでいた人で、少し憧れもあった。中学時代までは知らなかったが、高校に入って意識するようになった。今から思えば、あれが初恋だったのではないかと良枝は感じている。
――初恋って何なんだろう?
今まで初恋の思い出を友達が話していても、自分だけ蚊帳の外にいるような気がしていた。自分には初恋などないという気持ちがあったからだ。だが、今こうして結婚した自分と、茂が再会することによって、初恋を思い出すというのも皮肉なものだ。
ただ、この出会いが、自分の気持ちに変化をもたらすなどと思っていない。なぜなら、
「初恋というのは成就しないから初恋であって、淡く切ないもの」
という意識があるからだ。その意識があるから、今まで初恋が何なのか分からなかった。良枝にとって茂は、淡く切ない相手ではなかったからだ。憧れと慕うような気持ち、それも初恋だということを、知らなかったのだった。
そういう意味では、恋愛に関して良枝はウブなのかも知れない。それでいて恋愛のシナリオを書こうというのだから、おかしなものだ。しかも入選までするのだから、世の中本当に皮肉にできている。そう思うと、良枝は、思わず苦笑いを隠せなかった。
「でも、彼は私に気付いてくれたのかしら?」
良枝は、彼の顔をすぐに分かった。憧れた時のまま、大人になった感覚だからである。
あの頃から落ち着いていたし、今では、まだあどけなささえ残っているように思う。
「さすがに分からないわね」
良枝の高校時代は、本当に田舎っぽさの残る女の子だった。今では自分で言うのも何だけど、大人になったという感じを抱いている。女の成長は、男が思っているよりも変化は激しいものだと良枝は思っていた。
今は、良枝一人の胸に閉まっていることだが、この思いは、意外と心地いいものである。実際に好きになって結婚した夫がいて、さらに、近くに初恋の人が現れた。彼は以前とそんなに変化があるわけではなく、夫を見ては今の幸せを、そして茂を見ては、懐かしい中学時代を思い出すことができるのだから、心地よさも倍増であった。
だが、そんな心地よさがいつまでも続くほど甘くはない。そのことに、その時の良枝はまだ気が付いていなかった。
ただ、良枝は、茂に裏切られたと思っていた時期があった。一度彼からモーションを掛けられたのに、すぐに違う女性と付き合い始めたからだ。良枝にその気がないと思ったのだろうが、見切りが早すぎる。恋愛に疎い良枝には裏切りに見えたようだ。いつの間にかその思いが強くなり、心の奥に封印されていた。あとから思い出すのは、裏切りの方が強かったのだ。
茂が、時々しか帰ってこないのは、良枝にとっていいことだったようだ。いつも顔を合わせていると気持ちが揺らいでくる可能性もないとは言えない。もちろん、そんなことはないと思ってはみても、気持ちがいつ変わるかも知れない。良枝は、ずっと吾郎だけを見つめていける自信は、正直言ってなかったからだ。
恋愛のシナリオを考えている時は、人間の心の変化など、実に簡単なものだと思えていた。だからこそ、シナリオをいくつも書くことができるのだし、世の中に溢れている恋愛小説の数を考えれば、どれほど恋愛のパターンがあるか、想像を絶するものがあるのかも知れない。
恋愛小説を書く人の中には、本当に恋愛などしたことのない人や、インタビューなどで、恋愛について聞かれて、どう答えていいか困っている姿を見かける。
恋愛をしたことのない人にしか分からないことがあるのだろう。きっと恋愛についての質問で、返答に困っている人のことは、同じように恋愛経験のない人でしか分からないのだ。
良枝が恋愛に疎いということを知っている人は、ごくわずかな人に限られるだろう。夫である吾郎にも分かっている。それだけに、自分が気付かないのをいいことに、他の女性と付き合ったりしないかということが気になってしまう。嫉妬深いわけではないのだが、自分の知らないのをいいことにされてしまうのが嫌なのだ。要するに確信犯なのだろう。
ただ、吾郎はすぐに気持ちが顔に出る。一番確信犯にはなりにくいタイプである。
しかし、その時吾郎の気持ちが、少し由美に揺らいでしまうかも知れないところにいることを、まだ良枝は知らなかった。一歩間違うと、背中を押してしまうのが自分になってしまう危険性を孕んでいることは、隣に村田夫婦が引っ越してきた時から生じた一触即発の状態になっていることを知っている人は、誰もいなかった。
それでも、どこか歪みが生まれるのを危惧している人がいた。この輪の中で一番蚊帳の外に近いところにいるはずの茂であった。
彼は仕事でほとんどいないのに、たまに帰ってくると、何か引っ越してきた時と比べて、表から見た部屋が小さく感じられることがあった。元々霊感の強い茂は、それを何かの前触れとして受け取っていたのだった。
学生時代から、何か少しでも変わったことがあると、嫌な予感が頭を過ぎり、頭を過ぎった時には、いつも悪いことが起こっていたように思えたのだ。直接自分が被害に遭うこともあれば、人が被害に遭っているのを見て、まるで自分のことのようにゾッとした気持ちに陥るのだった。
茂は良枝のことを覚えていた。覚えていたのだが、自分から覚えているなどということは言えるはずもなかった。もし、良枝が気付いていないのなら、それが一番いい。もし気付いているとしたら、これから先、どのように接すればいいのだろうかと、思っていたのだ。
茂には、良枝に対して後ろめたさがあった。
良枝が茂を恨んでいるかも知れないと思ったからだ。良枝が自分のことを好きだということが分かっていながら、当時、まだ誰とも付き合っていなかった茂は、後から告白してきた別の女性と付き合うようになったのだ。
相手は、本当に積極的な女性で、いかにも男好きの雰囲気のする女性だった。茂も確かにウブではあったが、押しの強さに負けたというべきか、相手の女も、良枝が茂を好きなことを分かっていて、わざと意識している様子を相手に植え付けた。
見せつけるように茂と一緒に歩いたこともある。
「どう、私の方があなたよりも、いい女なのよ」
と言わんばかりの態度に、良枝は完全に萎縮してしまった。
だが、良枝も現実では負けていたが、シナリオで彼女のことを書いた。恨みを込めてと言った方がいいかも知れない。
それが佳作とはいえ入賞したのだ。もし大賞を受賞し、誰もが良枝の作品を見たならば、皆主人公が誰か分かっただろう。
フィクションとは書いているが、半分はノンフィクションであった。小説やシナリオでフィクションと言っても、そこには必ず作者の思い入れがある。それが良枝にとっては、実際の恋敵だったのだ。
だが、似たような感覚で書く人も少なくないだろう。
「私はこの作品に、自分の運命を掛けているのよ」
と言って応募した人もいるようだが、運命という言葉はノンフィクションだからこそ言えることなのかも知れない。