死がもたらす平衡
「ある程度は、かしこまってないと、お見合いではありませんからね。お見合いというのは、雰囲気も大切だと思うんですよ。それにお見合いをするからといって、恋人ができないからだとか、行きそびれてしまったから、何とか結婚を……、というような雰囲気でもないんですよ」
「どうしても、お見合いと聞くと敬遠してしまうのは、まわりから、そう思われるのが嫌だからなのかなって思ってしまうからですね」
「それに私は、結婚というのは勢いもあると思うんですよ。長く付き合っているから、結婚できるというものではないですからね」
思わず、その言葉に反応した吾郎は、一瞬ドキッとし、我に返った気がした。
吾郎の様子に少し変化が現れたのを見た由美は大げさに驚いたように、
「あら、ごめんなさい。そんなつもりではなかったんですよ」
と、慌てて取り繕った。
この時初めて吾郎は、由美の態度が少し大げさであることに気付いた。どこかわざとらしさのようなものがあり、
――少し気を付けないといけないかな?
と、感じたが、
――気のせいかも知れない――
とすぐに考え直した。
ここで、一度疑って、すぐに思い直した行動が、この後で大きな影響を自分に与えてしまうことに、その時はまだ気付いていなかった。
相手の雰囲気に「免疫」のようなものを感じたのだ。まるでハチに刺されたことでできる免疫のようではないだろうか。
その時は、そこまで感じなかったのだが、ともあれ、会話は結婚の話だけではなく、お互いの仕事の話しなどにも発展していった。由美が話をして、それに対して吾郎が受け返すという話し方である。
吾郎は、元々会話が得意な方ではない。良枝もあまり饒舌ではないので、二人でいて、さほど会話に花が咲くと言うことはないが、それでも、主導権を吾郎が握り、何とか会話をしてきた。そういう意味では吾郎は、会話に対して少し疲れのようなものを感じていたのだ。
由美と話していると、会話に疲れを一切感じない。相手に主導権を渡すということが、これほど楽だとは思ってもみなかった。
それは会話に時間を感じさせない力があることを初めて知ったからであった。由美との会話はそれだけ楽しいものだったのだ。
由美と一緒に、店を出て、マンションに帰りついたのは、午後十時前くらいだった。お互いの部屋の明かりはついていた。吾郎の部屋は分かるのだが、由美の部屋に電気が付いているということは、旦那が出張から帰ってきているということだろうか。
「うちの人、昨日から明日までこっちで勤務なんですよ」
旦那が帰ってきているというのに、道でバッタリと出会ったからといって、簡単に喫茶店で話をするというのは、吾郎には少し理解できなかった。しかも、新婚である。良枝も同じなのかと思うと、せっかく二人の楽しかった時間も少し色褪せて感じられるのだった。
表からマンションの自分の部屋のベランダを見つめることは今までにもあったが、その日は、手を伸ばせば届きそうなほど、すぐそばに感じられたのだ。
――不思議な感覚だな――
と思ったが、それは今までにも感じたことのあることではあった。ただ、それがベランダを見てのことではなく、確か学生時代に感じたことだったので、場所やシチュエーションはまったく別物だった。
――思い出せそうで思い出せない感覚――
苛立ちを覚えながら、次第にその苛立ちも薄れていくのを感じていくと、今度は、スーッと頭に上った血が下りてくるのを感じるようだった。
頭に上った血が下りてくる時の感覚は、快感に似ていた。一点に血液が集中したところから、一気に放出される快感、性の快楽を思わせるものがあるのだ。
由美を見ると、彼女もベランダを見つめていた。顔は髪の毛に隠れて見えないが、二人の距離を離そうなどという意識はなさそうで、つかず離れずの距離をずっと保っている。歩くスピードは若干早くなったと思ったのは、目的地が見えることから、最後の力が出てきたからだろうと思う。
そう思うと、吾郎は身体の力が一気に抜けてくるのを感じた。身体から力が抜けてくると、今度は疲れを感じるようになる。さっきまで歩くことに何ら違和感はなかったが、今では足を上げるのも億劫だ。足の裏に痺れを感じ、疲れが足から来ているのを感じるのだった。
汗を掻いていないのに、汗ばむような肌の感覚は、空気が腕にへばりついてくるように思ったからだ。
「雨でも降るのかな?」
と思い、また空を見上げたが、さっきから三時間も経っていないにも関わらず、どんよりと曇っているのか、さっきまで瞬いていた星が、まったく見えなくなっていた。それなのに、少し低い位置に月が見える。いつもよりも大きく見え、色も黄色というよりも、オレンジ色が掛かっているようで、不可思議な光景だった。お世辞にも、綺麗な月だと言えるものではなかったのだ。
もう一度ベランダを見てみると、そこに人影が見えた。
――良枝――
良枝がこちらを覗いているのが見えたのだ。そして、さらに隣のベランダにも人影が見えた。こちらは由美の夫である茂であることは分かった。二人とも、偶然ベランダを見ていたのだろうか、その視線がどこにあるのかまではハッキリと分からなかった。ただ、良枝の視線がこちらを向いていたのではないかと思えてならない。目が合ったような気がしたからだ。
由美は、そんな吾郎の心配を知ってか知らずか、ベランダを意識している様子はない。淡々と歩いているだけである。
「今日はどうもありがとうございました」
マンションの玄関であるエントランスに到着すると、由美はそう言って、頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそ時間を使わせてしまってありがとうございました」
集中ポストの郵便受けを開くと、そこには郵便がいくつか残っていた。
――おや?
不思議に思いながら、郵便受けを見ていると、
「じゃあ、お先に」
と言って、由美は先に階段を上がり始めた。
郵便受けを見ながら、立ちすくんでいる吾郎は、最初から上に上がるのは、由美と時間差をつけるつもりだったので、それはそれでいいのだが、郵便受けに手紙が入っているのが、腑に落ちない。
「今日は、良枝は仕事のはずだったのにな」
外出していれば、必ず帰ってきた時、郵便受けを確認するのが、良枝の日課だった。一度良枝が休みの時、吾郎が郵便受けを確認せずに上がってくると、
「どうして、郵便受けを見て来てくれなかったの?」
と叱られたことがあった。人を叱っただけのことはあり、今までに郵便受けを見ずに上がってきたことはない。ということは、良枝は今日、どこにも出かけていないということになる。
――体調でも崩したのかな?
一月に一度の腹痛は、ひどい時は、仕事を休まないといけないくらいの時があると言っていたが、確かまだのはずではないだろうか。吾郎も良枝もお互いにまだ新婚生活を楽しみたいという思いから、安全日を気にしているのだ。少し後ろめたい気分で帰ってきたこともあり、良枝の行動がいつもと違えば、どうしても精神的に不安定になり、妻に対して敏感になってしまうのも仕方のないことだろう。
郵便をいくつか確認する中に、気になる郵便があった。