死がもたらす平衡
罪悪感が頭を過ぎる。なぜここまで一緒についてきたのかが分からない。
吾郎は小説を書いていて恋愛小説を書けないと思ったのは、経験が乏しいからだと思っていたが、経験が乏しいのではなく、経験することを怖がっていたからである。妄想することは簡単だが、実際にその場面に遭遇すると、怖さが滲み出てくるのだ。我に返ったと言ってもいいだろう。そうなると、筆が進まないのも当たり前というものだ。
小説を書いていて、一番引っかかるのが、リアリティだった。妄想であっても、どこかリアルな発想が伴わなければ、書いていても続かない。比較対象になるものがないからだ。ただの想像であっても、現実世界との比較があるから、信憑性があるのだ。頭の中で、小説のネタになるという言い訳がましいことを考えていると、次第に、由美が自分に接近しているのが、計算ずくではないかと思えてくるのは、自分がそれほど女性からモテるはずがないという偏見から来ているのかも知れない。
その時すぐには分からなかったが、最初、道でバッタリ出会った時、由美がまるで苦虫を噛み潰したような表情になっていたことを吾郎は見逃さなかった。それは、本当に困ったという表情で、見てはいけないものを見てしまった感覚に陥ったのは、一瞬だったが、間違いのないことだった。
次の瞬間の笑顔が、今まで誰の顔からも感じたことのない表情だったことで、吾郎はすぐに気持ちが切り替わった。笑顔は吾郎を包み込み、それまでの感覚がマヒしてしまいそうなほど、その時間だけがいつもと違っていたのだった。
偶然にしては、あまりにも間合いが良すぎることで、最初、由美が待ち伏せていたのかと思ったくらいだ。それは吾郎の妄想の世界での出来事で、そうでもなければ、苦虫を噛み潰したような表情になるはずもない。どちらかというと、出会ってしまったことが、まずかったような表情ではないか、偶然の出会いにしまったと感じているのは、由美の方だったのだ。
喫茶店に呼ばれたのも、ここで出会ったことを誰にも言わないでほしいという約束をさせるためだったのだろうか?
いや、それ以後の表情を見れば、それは考えすぎのようだった。第一、少しでも気まずさを感じたのであれば、すぐにでもその場から立ち去りたいと思うはずだ。そこまで思わないということは、出会ったことの気まずさから、誘われたわけではないだろう。
喫茶店に入ると、由美は吾郎と良枝の馴れ初めを聞いてきた。
「私たちはお見合い結婚だったので、恋愛結婚がどんなものか、興味があるんですよ」
と、由美は言った。そういえば、どこかぎこちなさを感じる二人だったので、見合い結婚と聞いて、なるほどと思った。だが、見合いというのは、昔からあるまわりがお膳立てする古風ゆかしい「お見合い」のことであろうか。
最近では、「お見合いパーティ」なるものもあるが、そこで知り合って結婚した場合も「お見合い結婚」ということになるのだろうか。
お見合いパーティに参加した人は、なるべく自分から参加したことを話さない人が多い。恥かしいという感覚があるからなのか、それでも結婚してから、
「実は、お見合いパーティで知り合って」
と、話す人がいるのを聞いたことがある。結婚してしまえば、どうやって知り合ったかということは、あまり気にならないのだろうか? 何かの研究結果にでもすれば、面白い結果が得られるかも知れない。
お見合いの定義がどこにあるかというのも考えものだ。
恋愛できない人への救済というイメージが一番強いが、昔はそんなことはなかっただろう。格式高い血統が結びつくために見合いするという考えもありだったように思う。それだけ日本人が、血の伝統を大切にするということなのだろうか。
恋愛で結婚してしまうと、
「一度くらい、見合いしてみてもよかったな」
という人がいるが、見合いをゲームのように思っていて、結婚する意志などサラサラない人ばかりである。さすがに相手があることなので、好奇心だけで見合いをする人もいないだろうが、以前は、
「見合い結婚の方が、離婚率が低い」
と言われていたくらいで、熱しやすく冷めやすいのが恋愛ではないかと思っていると、見合いも別に悪いものではないように思えてくるのだった。
結婚してから後悔したことなどなかった。まだ一年経ったばかりで、結婚式もついこの間だったのではないかと思うほどだった。たくさん人が集まってくれたが、頭数を揃えただけで、今度誰かが結婚する時は、自分が頭数に数えられるだけである。
「結婚なんて、巡り巡って今回は自分のところに回ってきただけさ」
何とも、冷めた言い方だが、辛口にしても少し寂しい。出会った人にも失礼だ。結婚に対してあまりいいイメージを持っていない人がいるのも事実だが、だからと言って、結婚という二文字を一つの発想だけで決めつけてしまうのは、いい気がしなかった。
由美と出会った時、最初に感じたのは、新鮮さと結婚している自分を忘れさせてくれるような爽やかさだったのだ。
喫茶店に入り、さっそく話は結婚のことになったが、
「僕と妻は学生時代からの付き合いだから、結構長いと言えば長いですね」
「じゃあ、交際期間も長かったんですか?」
「そうですね。六年くらいの交際期間はありましたね」
「学生時代から、卒業して少しの間は友達として?」
「卒業してから、少しだけ連絡は取り合っていたんですが、すぐに仕事がお互いに忙しくなって、連絡を取っていなかったんですよ。でも、卒業してから三年目の同窓会で会ってから、お互いに気持ちを確かめ合ったというのが実際のところですね」
「何かそれって、ステキですね」
「ドラマみたいな感じでしょう? 自分のことなのに、何か他人のことのように思えるのが不思議なんですよ」
「それだけ、偶然というか、夢のような出来事だったのかも知れませんね」
と、うっとりした表情で、由美はあらぬ方向を見つめているようだった。
「奥さんは、お見合いだということですが、僕もお見合いとかしたことがないので、よく分からないんですが、どんな感じなんですか?」
吾郎が想像するお見合いは、料亭の離れのような部屋で、庭にはこじんまりとした日本庭園、ししおどしの「カツーン」という音が響く中、足の痺れに耐えながら、スーツと和服で見つめあう。
お互いの親と、仲人のような人がいて、最後には、
「後は若いもの同士」
というお決まりのセリフで去って行って、二人残される……。
そんなシーンしか浮かんでこなかった。
「池田さんは、きっと古風なお見合いの光景を頭に描いているのかも知れませんが、そうでもないですよ。ホテルのレストランのようなところで、普通に家族でお食事してという雰囲気なので、かしこまった感じではなかったですね。もちろん、目いっぱいのおめかしはしていますけどね」
「そうなんですね。でも、やっぱり、それでもかしこまった雰囲気を感じますよ」