死がもたらす平衡
大雑把でいい加減に見えるのは、自分で納得できないものがあまりにも多すぎて、仕方がなく妥協していることもあり、時々、我慢できずにまわりに湧き出る仕方なく妥協した感情だけが、人に伝わることで、大雑把でいい加減に見せているのかも知れない。
朝出かける時の感情が、隣に新婚夫婦が引っ越してきたことで変わりつつある中でスクランブルエッグを作っている隣の奥さんのイメージが頭から離れなくなってしまった。
――想像するのは、エプロン姿か、割烹着なのか――
どちらも似合いそうに見える奥さんを思っていると、良枝に対して、割烹着も似合うかも知れないと想像したことがなかった自分が不思議だった。
良枝は、明るい性格で活発な感じもするが、清楚なところが好きな男性もいるだろう。かくいう吾郎も、付き合っている時は明るい性格が好きだと思っていたのだが、結婚を決めた最大の理由は、清楚なところに惹かれたというのが本音である。
結婚を決めるには覚悟がいると言われるが、吾郎には覚悟はいらなかった。
「結婚するなら良枝しかいない」
と思っていたので、後は、背中を押してもらえるかどうかだけだった、
自分で決め切らないところが優柔不断だと言われるかも知れないが、そんな吾郎を良枝は、安心した気持ちで見つめていたのだ。
相性が合うというのは、気が合うのと少し違っている。お互いに話をしたりして表に出るのが気が合うことで、相性は「肌が合う」という表現で表されるように、本人たちの間でしか分からないところがあるのだろう。話が合わなくても相性が合うこともある。年齢差のある夫婦でも、うまくいっているのは、相性が合うからなのだろう。
そう思うと、気が合うというよりも相性が合う方が、結婚相手としては、いいのかも知れない。
吾郎は、良枝に対して、どちらも合う相手だと思っていた。結婚に覚悟が必要なかったのはそのおかげで、問題はタイミングだった。
「何も言わなくても、理解してくれている」
と思える相手で、余計なことはほとんど口にしない人ほど、相手のことを分かっているのだということを分からせてくれたのが、良枝だと思っている。
良枝と結婚したことで、結婚に対しての憧れなど何もなかったと思っていたはずなのに、始めた結婚生活が、理想のものであったことを再確認した気がしたのだ。憧れも持っていないのに、理想があるというのもおかしなもので、憧れのない理想があるということも、この結婚によって教えられたものだった。
「結婚するということは、新しい発見をいくつもできることなんだ」
と、思うようになり、
「結婚は人生の墓場だ」
などと言っている人は、結婚の本当の素晴らしさを知らないのだろう。理想が高すぎて、実際の結婚生活との差が激しい人が、そう言って自虐しているのか、あるいは、憧れが現実離れしていることで、現実とのギャップによって生じた我に返る瞬間が、時間の経過に追いついてくれないことで感じる悲哀なのかも知れない。
吾郎は、ずっと結婚への憧れを持ってこなかったことが、結婚することで、理想を手に入れることができたのだと思っていた。
「他の家庭がどうであれ、自分たちが幸せであれば、それでいい」
自分本位の考えに見えるが、他人のことなど気にしてはいけない風潮にある世の中で、自分たちが他人に関わることで、関わられた人が不幸になることだってあるだろう。理屈では分かっているが、
「決して、自分だけはそんなことはない」
と、思っている人も少なくない。
普通のサラリーマン家庭のマンションでの新婚家庭。どこにでもある平凡な暮らしができるのであれば、それが一番の幸せというものだ。
そんな幸せは、実際には薄っぺらいものであるということを思い知るのが自分だということに誰も気づくはずなどないのだ。幸せを捜し求めている時はいいのだが、実際に幸せの中にいて、自分で感じていた幸せだけでは満足できないのが人間というものなのかも知れない。
それを「欲」という言葉で表すが、欲を見てしまうと、欲だけにしがみつき、抑えが利かなくなることもある。
だが、それがすべて欲だけによるものなのか、そこに人間の意志が働いていたりはしないだろうか。新婚生活を脅かす存在が目の前に現れた。吾郎と良枝、その後の運命を知っている人間が、果たしていただろうか? 今年、三十歳を迎える新婚夫婦、初めて、波が訪れたのだった。
村田夫婦が引っ越してきてから、一か月が経とうとしていた。吾郎は、隣の卵料理の匂いを感じながら、毎日出勤していたが、村田夫婦の台所では、月に半分しか、朝食の食卓に旦那がいることはなかった。
それでも、奥さんは作り続けている。それが毎日の日課だからだ。
村田夫婦の夫の方の名前は茂、奥さんの名前は由美という。年齢は男が三十歳で、女は二十八歳だった。二十八歳ではあるが、落ち着いて見えるので、少し年上に見える。最初に年齢を知った吾郎は、正直ビックリしていたのだ。
池田夫婦と村田夫婦、最初に話をするのは、吾郎と由美のことだ。
やはりきっかけは朝食の卵料理の匂いだった。会話のきっかけとしては、ちょうどいい話題だったのだろう。吾郎の帰宅時間と由美の帰宅時間がピッタリ合ったのが三日前だった。夫が出張でいないので、仕事帰りの途中で買い物をしてきて、吾郎の帰宅時間と一緒になった。
「久しぶりに街に出てみたんですよ」
と、本当に久しぶりに出かけた都会で、知り合いに会えたことが、由美を喜ばせたのだろう。由美の笑顔に新鮮さを感じ、吾郎は自分が良枝以外の女性にときめいていることに不自然さや罪悪感を感じることはなかったのだ。それだけ自然な出会いで、忘れかけていた何かを思い出させてくれる新鮮さを感じた。
馴染みの喫茶店があるという由美にくっついて歩いていても、不自然さは感じなかった。普段見ることのない夜空を見上げると、
「星が瞬くというのは、本当なんですね」
と、照れ臭さから見上げた空に感動すら覚えた。
「最近では珍しく、星がきれいですね。田舎出身の私は、いつも星を見ていたから分かるんですけど、空気が澄んでいないと、星が瞬くなんて見ることはできないようですよ」
ずっと都会暮らしの吾郎からすれば、田舎があるのは羨ましかった。綺麗な空を見上げていると、あっという間にかなり歩いていたようで、気が付けば、あまり知らない場所に入り込んでいた。
「もう少し向こうですね」
由美が連れてきてくれた場所は、どこか懐かしさがあった。
――そうだ、大学の近くにも同じような喫茶店があったな――
と感じたが、卒業してから行ってないので、まだあるかどうか分からない。良枝と一緒に行ったことはなく、良枝だけではなく、誰とも一緒に行ったことはなかった。自分にとっての隠れ家のような店だったのだ。
思い出してみると、懐かしさよりも、今自分を引っ張ってきた由美と一緒に行けたらよかったという思いが湧いてきた。そうであれば、その店は二人にとっての思い出の場所となり、会話にも花が咲くのではないかと思うのだった。
彼女は奥さんで、自分も妻帯者である。由美との思い出を欲すれば、浮かんでくるのは、良枝の顔だった。