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死がもたらす平衡

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 そんな村のようなところにいると、まるで「浦島太郎」になったかのようである。現実逃避しているつもりはなくとも、現実逃避に他ならないことを思い知らされるのは、帰る頃になると、
――このままずっといたい――
 という気持ちにさせられることだった。
 それでも、帰らなければならず、後ろ髪を引かれる思いで帰ってくると、そこに待っていたのは、弟の死という逃れられない現実だった。
――どうして、こんな時に旅行になんか出たんだろう?
 当初の目的が、弟から殺されそうになったと思ったことから、
――少しの間離れてみて、頭を冷やしたい――
 という思いからだったはずなのに、まさか二度と会えないところに行ってしまうことになるなんて、夢にも思わなかったのだ。
 こんなことなら旅行に行かなければよかったと思うのが本当なのだろうが、後悔はしても、旅行に出たことへの後悔ではない。では、何に対しての後悔なのか、ただ遠くを見つめることしかできない頼子は、思い浮かべようとしても思い浮かべることのできない弟の笑顔を、たくさんの人の中に埋もれていく後ろ姿だけを追いかけて、人を掻き分け、逃がさないようにピッタリくっついている自分を想像していた。
 なかなか縮まらない距離、この間までは弟が自分を見て後ろからついてきていたはずなのに、いつの間には、自分が追い越してしまっていた。それが嫌な胸騒ぎを呼び、虫の知らせを感じさせたのだった。
 頼子は、半年前くらいまで、
「死にたい」
 という気持ちをいつも秘めていた。表に出すことはなかったが、秘めている思いをいつも感じながら生活していると、人もおかしな目で見ることもあるようで、付き合っていた男性からも、
「君の目を見ていると、逃れられないような恐怖を感じる」
 という、理由のような言い訳のような言葉が聞かれたが、それは一人からだけではなかった。数人の男性から似たような言われ方をすると、
「やっぱり、思っていることっていくら秘めているつもりでも、表に出てくるものなのかも知れないわ」
 と感じた。
 どうして死にたいと思うのか分からない。彼氏も普通にできて、仕事も行き詰っているわけではない。確かに、自分から人に寄っていくタイプではないが、人から嫌われることもなく、人間関係は悪くない。どこに不満があるというわけではないのに、死んでしまいたくなるのはなぜであろう?
 死と隣合わせに何かがあるのを感じていた。それが自分にとって何なのかは分からないが意識の中に存在している。
 時々その陰に弟がいるのを感じることがあった。弟が誰かを好きになったのだが、それは頼子を通してその人を見ているように思う。
「直接見ればいいものを」
 と、思うのだが、直接見ることに抵抗があるのか、頼子を通してでしか見ることができないのか、とにかく、意識は頼子の背中から感じるのである。
 危ない目に遭って、逃げたい気持ちの元、出かけた旅行から帰ってきて、自分の部屋の懐かしさを感じていたちょうどその時、飯田の訃報が伝えられた。
「どうして?」
 訳が分からないまま、死んでしまった弟のことを考えていると、頼子はまたもや背中に視線を感じた。背中から差すような視線は、背中にたっぷりの汗を掻かせ、そのまま金縛りにでも遭ったかのように、身動きすることができなくなってしまっていた。
 ここからの慌ただしさは、先日まで落ち着いた気分を台無しにした。死んでしまった弟なのに、
「せっかくの気分を台無しにして」
 と、そんな場合ではないはずなのに、恨み言の一つでも言いたい気分にさせられた。ただ、これも飯田姉弟の繋がりの一つで、死んでしまった弟への悔やみの一つだと思っていた。
 飯田が死んだことを一番信じられないと思っていたのも、そして一番飯田の死を受け入れられると思ったのも頼子だった。
「あの子に対しては、何でも私が一番だわ」
 と感じた瞬間、姉弟でありながら、弟のことを男として見ていた自分がいることに改めて気付かされた頼子だった。
 飯田も死ぬ前、頼子を完全に女として見ていた。女は頼子しかいないというくらいに思っていたのだ。
 死を迎えることになった原因はいくつかあるのだろうが、その一番大きな理由は、頼子に対して女として見てしまったことだったのだ。
 頼子が感じた死の予感、自分に対して危害を加える飯田の行動は、苦肉の策だった。もちろん、本当に殺す気があったはずなどないのだが、頼子を危険な目に遭わせることで、少しの間、頼子から自分と離れることを選択させたのだ。自分から離れられれば一番いいのだが、そこまで頼子に対し、自分が行動を起こすことができなくなってしまっていたのだ。
 旅行に出かけさせておいて、飯田は自分にどのような試練を課したのだろう。最後には、「死」という道を選ぶ結果になったのだが、それしかなかったのだろうか? 頼子は飯田が死んだことで、分からなかったことが少しずつ分かってきたような気がしていた。分かったところで弟が帰ってくるわけではないし、取り返しがつくわけでもない。頼子にとって飯田がただの弟でなかったことを、本人の死によって思い知らされるというのは、実に皮肉で虚しいものだった。
 死んでいった弟の墓前で手を合わせていると、声が聞こえてきそうだった。
「お姉さんが、そんなに悲しんだら、僕はどうしたらいいんだい?」
 不思議と弟が死んだと言うのに涙が出てこなかった。そんな自分に対して当事者である弟がまったく違ったイメージで見ているのはどういうことだろう?
「私はそんなに悲しんでいるわけじゃない」
 と答えると、
「悲しみを抑える人がいるけど、お姉さんは抑えているわけじゃなさそうだね。でも僕には姉さんが、僕ともっと話がしたかったという気持ちと、心の奥にある気持ちを分かっているつもりだろう」
「心の奥?」
「うん、姉さんは本当は僕のことが好きなんだよね、オンナとして。僕はそれを死ぬことで知ることができた。これも実に皮肉なことだよね。死ななきゃ分からないなんて、悲しすぎるよね。できることなら生き返りたいけど、そんなことができるはずもない。だから、こうやって話すしかないんだ」
「私は、話すだけじゃ我慢できない。やっぱり、あなたと触れ合っていたいの」
「ありがとう、それは僕も同じだよ。でもどうすることもできない。これからお姉さんは誰かを好きになって結婚していくんだろうね、手をこまねいて見ていないといけないというのも本当に辛いよ。これも実の姉を好きになってしまった報いなんだろうか?」
 弟が報いを受けるなら、私はどうなのだろう?
 このままむざむざ、年を重ねていくのを待っていなければいけないのか。弟は自分が誰かを好きになって結婚していくと言ったが、そんなことができるはずがない。少なくとも今はできるはずがないと思っているのは、弟の呪縛を感じるからだ。
 嫌な呪縛ではない。姉としてではなく女として弟は縛ってくれようとするのだ。だが、どうせなら生きている人間に縛られたい。誰も信じられないような、そしてそれを信じている自分をおかしいと思いながら、いつまで感じることになるというのだろうか、この呪縛……。
作品名:死がもたらす平衡 作家名:森本晃次