死がもたらす平衡
少し話をする中で、夢の話をしていた彼女のことを聞いてみると、マスターもほとんど忘れてしまっているようだった。あれだけ印象深かった彼女が、マスターの中で記憶に封印されかけていた。それだけ、彼女は自分の気配を最後の方は消していたのかも知れないと感じていた。
意識的に気配を消すことができる人というのが本当にいるなどなかなか考えにくいが、彼女に関してはありえる気がした。話の内容が夢の話でなければ、良枝の記憶の中からはすでに消えていたはずだからである。
良枝は自分の中で、あれだけ印象的だった幼女時代に悪戯をされた二人組のうちの一人、つまり飯田以外のもう一人の記憶が消えかかっていることに気が付いた。
彼女と同じように、自分の気配を消すことが得意な人ではなかったか。まるで消しゴムのように消したとしても、跡はしっかり残っている。消すのは気配だけで、存在まで消すことはできない。
いや、存在を消すことができないわけではない。消す必要はないのだ。気配さえ消してしまうことが、その人にとって重要なことであるに違いない。
そういえば、気配を消す意志がないのに、元々気配が薄い人というのは、今までにまわりに一人くらいはいただろう。いつも同じ人だとは限らないが、えてして目立たないようにしていて、印象だけは残っている。ただ、風体を思い出すことはできない。存在だけ意識していて、後はまったく分からないのだ。
悪戯された記憶も一時期風化される寸前まで行っていたのだが、それを思い出したのは、存在だけ意識していて、風体を思い出すことができない人がまわりにいることに気付いたからだった。
――中学、高校時代には特に意識したような気がする――
成長期だったこともあって、人にいうとバカにされるかも知れないと思ったので誰にも言わなかったが、いつも誰かに見られている感覚があり、気持ち悪かった。視線はそれほど鋭くはなかったが、そのわりに、突き刺すような痛みを感じさせるものだった。
頼子は、飯田が死んだのは自殺だと思っている。
他の誰もが自殺だと思っていないとしても、頼子だけは自殺だと思い続けるだろう。他の誰もが飯田の死を事故だと思っているとすれば、やはり自殺の原因が分からないからだ。頼子も、まさか自殺だなどと最初は思っていなかったので、気が付かなかったが、逆の見方をすることで、今度は自殺でなければいけない気がしてきたのだ。
飯田が自殺だとすると、頼子には思い当たるふしがある。
「あれは弟だったんだ」
頼子は、今までに何度か危ない目に遭っている。人に襲われたりしたわけではないのだが、歩いていて上から物が落ちてきたり、自転車に乗ろうとすると、ブレーキが甘かったり、それぞれ危機一髪のところで分かったことで難を逃れたが、一歩間違えると、それも死と隣り合わせの結果が待っていただろう。
表に出るのが怖くなり、家で一人でいると、誰かに見られている気がして怖かった。見ていた人がいるとすれば弟しかいない。
「まさか、あの子が」
と思うと、家にいるのも怖くなった。
しばらく、旅行ということにして家を離れてみた。まさか旅行先にまで追ってくるはずはないと思ったからだ。
旅行をしていると、それまでの不安な気持ちが次第にほぐれてきた。最初旅に出てすぐは、家を離れたことが却って怖かったが、次第に気が楽になってきた。それは自分ではなくなってきたような錯覚に陥ったからで、たまに普段の自分が嫌になることがあったのを思い出していた。
――普段の自分のどこが嫌だというのだろう?
いつも同じことをしているわけではないが、時間的に一番長くしていることが自分にとっての普段というのだろうか。会社勤めをしていれば会社にいる時、学生なら学校にいる時、専業主婦なら家にいる時、いや、買い物に出ている時かな?
それぞれの場面が頭に浮かぶ、結婚経験のない頼子は、専業主婦の「普通」がどんなものか分からないが、親を見ていれば、本当につまらないものに思えてならなかった。
それでも学生の頃の楽しかったと思える場面も、もし今その場面と遭遇したとして、本当に楽しかったように見えるだろうか。自分の姿がそこになければ本当の楽しさや感情は湧いてこないだろう。結婚生活もつまらなそうに見えても、やってみれば意外と楽しいと思えるものなのかも知れない。表からつまらなく見えることが実は楽しいことであったり、楽しそうに見えることでも、やってみると本当につまらないことだったりと、自分が天邪鬼ではないかと思えてくるのだった。
旅行には、以前から行ってみたかった温泉を選んだ。誰も誘わずに一人旅である。誰かを誘うと、自分の心境の変化を悟られそうで嫌だったのだ。
密かに出かけるには、ちょうどいい秘境であった。
一人で湯に浸かっていると、嫌なことも忘れられる。目の前に並んだ料理も、一人では贅沢なくらいのもので、どうせたまにしか出かけない旅行なら、贅沢三昧してやろうという思いの中でのことなので、思う存分、目の保養を楽しんだ。
だが、目の保養を楽しんだ後に、実際に食べてみると、えてしてすぐにお腹がいっぱいになってくるもので、これ以上は食べられないという限界が、あっという間にやってくるのだった。
そんな時、
「こんなに豪華な食事も儚いものに見えてくるのだから、物の価値って一体どこで決まるのかしら」
と考えてしまう。
旅行には一週間を予定していた。この宿に三日間、そして少し離れた温泉に四日間の予定にしていた。後の方を四日にしたのは、一日目は、前の旅館のイメージを消すための時間として取っておいたのだ。比較するつもりなどあったわけではないのに、なるべく一週間を二つの宿を平均的な目でみたいという思いがあったのだ。
最初の宿が陽なら、次の宿は陰だった。どちらも秘境には違いなかったが、後の方の宿は、お客へのサービスというのはさほどない。村の温泉が宿になったという雰囲気で、ガイドブックで宣伝されるようなことは、まずないと言っていい宿だった。
ただ、表に出たサービスというものはないが、心遣いは十分に感じられた。食事一つをとっても、食べやすい大きさで、客に合わせた量をしっかりと提供してくれる。少し行くと海もあるので、釣り客の常連が利用することが多いと言う。客は釣り客を初めとしてそこそこにいる。女性客は珍しいらしく、その時も女性は頼子一人だった。
最初の宿の三日間を忘れさせられるほど、雰囲気の違いに驚いていたが、
――心遣いとは、こういうことを言うんだ――
と、宿の人に愛想は感じないのに、暖かさは感じるのだった。
旅行から帰ってくると、どこかカルチャーショックのようだった。見慣れた景色なのに、どこか狭く感じられた。
旅行先の宿やそのまわりが、こじんまりとしているわりには、建築家から見れば規格外の建て方をしているのだろうが、自然に合った造りになっているように思えてならなかっただけに、自然に合わせたというよりも景観を重んじて作られた町並みは、わざとらしい光景に見えるのだ。
わざとらしさの中には、暖かさは感じられない。活気があったとしても、ウソっぽさで塗り付けられたような光景であった。