死がもたらす平衡
良枝は、自分の中のトラウマは、誰よりも深く、そして掘り下げられたくないものだと思っていた。自分のトラウマを覗こうとする人は、誰であっても侵略者のような気持ちでいて、神聖ではないが、侵すことのできないものだと思っていた。深く掘り下げられると、本当は自分で解決できずに、封印しているものに、土足で踏みにじられては収拾がつかなくなってしまう。自分の中にできたトラウマは、何があっても、最後は自分で解決しなければいけないものだと思っていたのだ。
そんな時に、トラウマという言葉を連呼されて、少し苛立ってしまった。だが、彼女を見ていると、その人にもトラウマがあり、彼女の場合は人に話すことで解決の糸口をつかもうとしていたのだろう。
彼女と良枝の最大の違いは、彼女が加害者であり、良枝が被害者であるということ。もっと正確にいえば、彼女は被害者でもあるということだ。
――被害を受けたことで、人に危害を加えてしまったんだわ――
ただ被害を受けただけのトラウマと、両方を共有しているトラウマとでは、最初から大きさを競うまでもなく、共有している人に適うはずはない。良枝は苛立ちを感じながら、そんな風に考えていた。
良枝は、自分が被害者なだけに、被害者の気持ちは自分が一番分かっていると思ったが、加害者ではないはずなのに、なぜか加害者の気持ちも分かるようになっていた。ただ、被害を受けたから他の人に報復すると言ったような単純な図式ではない。夢が関わってくると、感覚がマヒしてしまって、加害者であることの感覚がマヒしてくるのではないかと思うのだった。
「トラウマって言葉、私はあまり好きじゃないのよ」
彼女は、そう言った。
「私もそう。でも、その言葉で表現しないと、他にどう言えばいいのか、私には分からないんです」
と良枝がいうと、
「あなたも、何か被害を受けて、トラウマを感じるようになったの?」
「あなたもということは?」
そう言って、相手の顔を見上げるようにしながら覗き込んだその顔は、寂しそうだったが、別に目を逸らそうとせずに、良枝を見返している。
「そうね、他に言葉が見つからないわね。でも、心理学として片づけられるのは、私には我慢ならないの」
学問の材料として使われるということは、研究されて何かの答えが見つかる可能性があるということだ。だが、一口にトラウマと言っても、人間の数だけあると言っても過言ではない。無数のトラウマをどのように分類し、どのように解釈していくのか、興味深いところでもあった。
彼女が頼子であることは、結局最後まで良枝は知らなかったが、その時に会っただけで、頼子と顔を合わせることはなかった。そのうちに忘れていくのだが、
「そういえば、この間、夢の話をしたお姉さん、見かけませんね」
とマスターに聞いてみると、
「別に彼女来ていないわけではないですよ。どうやら、良枝さんとは相性が合っていないようですね」
と、冗談めかして話してくれたが、良枝は頼子に会おうと思い、彼女が来ていたという曜日に照準を合わせているのに、会うことができない。時間が合わないのか、それとも故意に彼女が曜日を変えたのか定かではない。マスターにそこまで訊ねるわけにもいかず、
「そうなんですね」
と、答えるだけしかなかったのだ。
「それに、彼女がここに来る時って、最近は一人じゃないんですよ」
これは意外だった。一人が一番似合いそうな気がしたからだ。一人でやってきて、常連さんと話をするくらいなら分かるが、最初から誰かと一緒に来るというのはイメージに合わなかった。
「女の人が同伴ですか?」
「ええ、頼子さんよりも少し若い感じの人ですね。二、三度一緒に来られていましたね」
「どんな雰囲気だったんですか?」
「普段から物静かな感じなんですが、二人で来ても、あまり自分から喋るというわけではないですね。相手の女性が話しかけることが多く、彼女は黙って聞いていましたね」
どんな話なのかは想像もつかないが、どうやら、深刻な話ではないかと思うのだった。頼子は気が合う人とであれば会話が弾むであろうし、気持ちに余裕があれば、誰が見ても分かるくらい穏やかであった。マスターも穏やかな表情であれば、一人でいる時の物静かと比較してあまり変わらないような表現をしないだろう。
「どのあたりに座っているんです?」
「一番奥の端っこですね」
と指差したその場所は、いかにも密談をするには最適に暗い場所だった。マスターも意識してそんな場所を作ったわけではないだろうが、端っこというのは、見ていて暗く感じる。遠くに感じられ、狭く感じるそのスペースは、店の中での「死角」に当たる場所だと言っても過言ではないだろう。
良枝はその場所を見つめていた。
「きっと奥に座っていたのが彼女なんでしょうね」
「そうですね。よく分かりますね」
「ええ」
あくまでも勘であった。彼女と一緒に来た若い方の女性は、きっとあまりありがたくない話を持ってきたに違いない。そのために自分の顔や表情をあまり見られたくないと思うに違いない。それならば、相手は店から見える方向に背中を向けているに違いないと思ったからだ。
だが、逆に考えれば、困った表情でまるで苦虫を噛み潰したような彼女の表情は皆にまる分かり、何か怪しい話をしていることを隠すことはできないだろう。それでも自分の顔を確認されるのが嫌だということは、二人の間だけの怪しい話であることを示しているように良枝は感じたのだった。
「当たらすとも遠からじ」
二人は二、三回だけの「密会」だったようだが、それから彼女もしばらく来なくなったという。そしてまた来るようになると、今度は良枝を避け始めた。
「彼女はこのお店で、私以外の常連さんとお話することってありました?」
「以前はあったんですが、今はないですね。良枝さんと話をしているのを聞いて、感心したくらいでしたからね」
よほど夢の話に黙っていることができなくなったのか、確かに話は熱を帯びて白熱していた。いつになく良枝も興奮していたようで、話終わった後に手の平にはぐっしょりと汗を掻いていた。
夢に出てきたのが、彼女だということに気付きもしなかった。
気付いていたのなら、夢を見た時、彼女を探してみようと喫茶店を訪ねていたかも知れない。だが、その時馴染みだった喫茶店は、数か月前に閉店してしまった。他に仲の良かった常連さんがいたわけでもないので、なくなってしまったことに一抹の寂しさを感じたが、それも日常生活の一部だというだけで、何ら感慨深いものがあったわけではなかったのだ。
気になる人がいたというだけで、それ以上でもそれ以下でもない。記憶が消えることはないだろうが、封印した記憶を引き出すことも、よほど何かがない限り、あるとは思えない。
あれからしばらくして、マスターとスーパーでバッタリ出会った。元気にしていて、別の場所で、商売替えをしたという。良枝は気にならなくなってしまったことが自分の中で馴染みだったはずの店も、一つの人生の一ページでしかなかったことを、一塵の風が吹き抜けたような寂しさを感じていた。そんな時にマスターと出会えて、元気でいるのを見ると、何となく救われた気がしていた。