死がもたらす平衡
それだけ二人の間には、距離を感じさせないものがあった。惹き合う心が意識の中にあって、人には犯すことのできないもの。そしてそれは夢の共有に近い感覚ではないだろうか。二人には夢を共有している意識があった。直接話をしたことはないが、頼子の夢の中に出てきた弟は、頼子の潜在意識の範囲を超えていたのである。
「弟なら、こう答えるだろう」
という答えを返してくれない。しかも頼子が意外だと思っていることを分かっているのか、弟はニンマリと笑うのだった。
「夢とは潜在意識が見せるもの」
という考えを頼子は持っている。潜在意識の範囲外、つまりは想定外の回答をしてくる弟は、あくまでも夢の中では規格外であった。
「どうしてそんなことをいうの?」
返してきた答えに、こう答えたいのだが、言葉にならない頼子は、言葉に出せないことに怯えを感じていた。
――私は夢の中では、弟を恐れているんだわ――
その気持ちが強かった。
飯田は、どこまで姉の気持ちが分かっていたのだろう? 死んでしまった今となってはすべてが想像でしかないが、もし生きていたとしても、そのことを飯田が口にするとは思えない。
一つ言えることは、姉を怖がっていたということだ。
自分の悪戯癖の発端となったのが、姉による悪戯だとは、飯田は思っていなかった。それなのに、姉が自分の悪戯癖を知っているのを分かっていたからだ。
――どうして知っているんだ?
悪戯しているところを見られたのかも知れないと最初は思った。見られていたのなら、止めに入るだろうが、止めにくることはなかった。もし姉なら、止めに入れなかったことを、その後自分で後悔するかも知れない。
確かに自分を苛めているところがあるのだが、飯田に対して何かを言おうとは思っていないようだ。もし、止めに入ることができなかったのであれば、何かを言おうとして辞めるのではないかと思ったからだ。
だが、姉が何か戒めになるようなことを言おうとしている素振りはない。ずっとそのことを感じていると、知らなかったことは間違いないと思うのだった。
「死んだ人の悪口は言いたくないが」
という言葉に、最近敏感になってきた。
弟が悪口を言われると思うからだ。
「もし弟の悪口をいう人がいれば、この私が許さない」
と、思うようになったのは、悪口を言っていいのは、自分だけだという思いを持ったからだ。
この思いは、子供の頃に感じた思いだった。
「弟を自分で独占したい」
自分のものだけにしておきたいという思いがあったことを思い出した。ひょっとすると悪戯をしてしまった気持ちの根底には、自分のものにしておきたいという思いが根付いていたのかも知れない。
頼子は自分が独占欲の強い方だとは思わない。むしろ、人に従う方だ。親のいいなりになるのもそのせいだが、だから、逆に遺伝による性格が表に出るのを無意識に牽制しているのかも知れない。
ただ、弟に関してだけは違っていたのではないか。自分のものにしておきたいという気持ちが悪戯に繋がった。
「お姉ちゃん、やめて」
小さな声で弟が呻いたのを思い出せそうで思い出せない自分が怖い。明らかに言われたはずなのに、思い出せないのだ。だから、弟が悪戯された意識がないと思ったからだが、実際には正反対だった。
その時弟は訴えたが、姉は聞いてくれなかった。それがトラウマになり、
「訴えても一緒なんだ」
という気持ちにさせてしまった。飯田の思いは、頼子が考えているほど単純なものではないが、それだけに飯田には、姉に分かってほしかったという気持ちが強かったのだ。
頼子にもあるトラウマと、飯田にあるトラウマ、表に見えているものの原因は一緒かも知れないが、実際には違っている。頼子はそのことに気付き始めている意識がまだなかったようだ。
飯田は、子供の頃、ませた男の子だった。同い年の子供に比べて、しっかりしていたのだ。良枝が幼女だと思っていた時、飯田も同じ年齢だったはずなのに、良枝に対して、自分よりも年下の女の子だと思っていたようだ。
あれは二人とも小学四年生だっただろうか。幼女というわけではなかったが、飯田には幼女に見えたし、良枝も当時は晩生だったこともあって、幼女の頃だという記憶しか残っていない。
姉の行動によって、性に目覚めてしまった飯田、そしてまだまだ幼女だと思っていた良枝、二人は両極端だったこともあって、良枝も飯田も、お互いにあの時の相手だとは思わなかったのだ。
因果は巡るというべきか、あの時の良枝は、飯田によって性に目覚めさせられたのだ。そのおかげで、良枝はその頃から年相応の女の子の雰囲気を醸し出すようになり、なかなか成長が進まないと気にしていた親を安心させたのだから、本当に因果なものである。
性に目覚めた良枝と目覚めさせた飯田、良枝は他の誰かに悪戯してしまうかも知れないと自分を苛めたことがあった。それは夢で誰かを苛めている自分の姿を見たからだ。
苛めている自分の顔は分からない。だが苛められているのが誰なのか、分かっていた。
よく見ると男の子で、その子は見覚えがあった。その時良枝は知らなかったが、苛められていたのは飯田であって、苛めていたのは、頼子だった。まるで飯田の気持ちが乗り移ったかのような夢だったのだ。
そんな夢を何度か見た。良枝が他の人を苛めようと思うことがなかったのは、姉が飯田を苛めている夢を見たからなのだが、それが原因であることは、良枝には分からなかった。
「一体誰なのかしら?」
という思いは強く、その頃から夢が自分に与える影響が強くなってくることに初めて気づいたのだった。
夢で見たことが自分に対しての戒めになっていることを知った良枝は、夢について話ができる友達がほしかった。実際に同じ考えでなくてもよく、むしろ考え方が違った方が、会話に論点ができて、発展性があるというものだった。
なかなかそんな友達ができなかったが、一度、馴染みの喫茶店で夢についてマスタ―と話をしている時、横から、
「夢のお話ですか?」
と、割って入ってきた女性がいた。
あれは、二年前くらいのことだっただろうか。まだ吾郎との結婚が表面化していない頃のことであり、まだまだ時間に余裕が合った頃だった。
マスターに後から聞くと、
「ここ二、三か月の間、週一くらい夕食を食べに来ているよ」
と言っていた。
「この近くに一週間に一度用があるのかも知れないですね」
というと、
「今度来たら聞いてみてあげよう」
と言ってくれた。
だが、彼女がこの店にきたのはそれが最後で、会ったのもその時だけだった。
夢に対しての話には独特のものがあり、潜在意識が見せるという意味では共通していたが、細かいところでは少しずつ違っていた。
違っていたというより、ずれていたと言った方がいいかも知れない。お互いに向いている方向が同じなので、出発点が若干でも違っていれば、交わることも重なることもない。まさしくそんな会話だった。
詳しい内容までは覚えていないが、彼女は、「トラウマ」という言葉を一生懸命に口にしていた。
「トラウマが夢に与える影響ってすごいと思うんですよ」