死がもたらす平衡
せっかく結婚一年が過ぎて、まだ新婚気分を満喫しながら、これからの人生設計をゆっくり考えてみようと思っていた時、吾郎はちょっとした気の緩みから、由美に手を出してしまった。
どうしてそうなってしまったのか自分でも分からない。それは由美が最初の女性だったことが一番大きな理由だが、男というものは、それほど最初の女を忘れることができないものなのだろうか。
「淡く切ない思い出として残しておけばよかったんだ」
由美のことを考えていると、ふと良枝が由美をどう思っているのかが、気になってしまった。
由美は気が強く、自分の思い通りにならないと、強引にでも、自分の思い通りにさせようとするところがある。全部が思い通りになるわけではないが、比較的思い通りになってしまうことが多い。それが由美のまわりに対しての影響力の強さを表しているのだろうが、由美は諦めるということをしないのだ。
吾郎は由美と堕ちていく泥沼の不倫の世界を想像し震えていた。気持ちとしては別れたい。まだ二人で会うようになって一度か二度くらいではないか。
「今なら引き返せるはずだ」
由美を抱いている時、由美に見つめられるとその目力に圧倒され、逃れるなど考えられない。しかし、お互いを貪りあった後、脱力感に包まれた身体から冷えた汗が流れるのを感じると、全身から冷や汗を掻いているようで、後悔の念が冷や汗とともに吹き出しているのを感じる。
――この女には罪悪感などというものはないのか?
満足して息を切らしながら天井を見つめている由美を横目で見ながら、男と女の違いを痛感させられているように感じた。
――不倫の代償は男と女、どっちに大きいんだ?
と思ってみたが、そんなことを考えているうちは、後悔の念に苛まれているだけで、不倫という泥沼から抜け出すことはできないだろうし、罪悪感を持つことで、自分をある意味正当化させようとする大義名分も消え去ってしまうようだった。
同じ修羅に入り込む寸前にいながら、これほど由美との距離が遠いとは思わなかった。ただ、このことを感じると、吾郎の由美への気持ちが一気に冷めてくるのを感じた。気持ちさえ冷めてしまえば、修羅から抜けることも可能だと思っていた。
そして、冷めた気持ちで修羅に進んだ時の自分が、まるで他人のように思えたのである。
「不倫は身体の関係であり、身体を忘れられないから、不倫は止められないんだ」
と思っていたが、実際に不倫をしてみると逆だった。
身体に関してというよりも、不倫の扉を開くのは、感情だった。感情があって、初めて身体を求めるのだ。相手の身体を貪るのは、自分の整理できない気持ちを必死になって組み立てようとする別の形の表れだと思うようになった。相手に求めるのは癒しであり、心の余裕だったのだ。
それを知ったのは、別れることを感じた時だ。
確かに冷めてしまってはいたが、由美に傾けた気持ちは本物だった。癒しを感じることもできたし、心の余裕も与えてくれた。それを初恋同様「淡く切ない思い出」として大切に心の奥に封印することができれば、不倫という修羅から逃れることができる。そう思った吾郎だが、逃れるために必要なのは、一瞬の判断力だと思った。
「ここで終わりにするんだ」
という強い気持ちを一気に形にする一瞬の判断力、それが唯一不倫から抜け出す方法である。
覚悟という言葉では言い表せない。
覚悟というのは、いろいろな状況を考えて、最後に自分の行動を決定づけるもので、時間を掛けて積み上げていくものだ。それは前向きなことに対しての自分の決意である。それを本当は覚悟という言葉で言い表すのだと思うのだ。
覚悟を後ろ向きなことに使おうとするから、一瞬の判断力が鈍ってしまう。せっかく逃れる決意をしようと思っても、その機会を逃してしまうのだ。不倫から抜けられない人の多くはそうでないかと思うのだ。もっとも、それほど経験豊富ではない吾郎は、人に話すこともなければ、ただ自分を納得させるだけで、心に閉まっている。何かの折りに思い出して考えればいいことだった。
深みに嵌る前でよかった。いくら一瞬の判断力を持つことができても、判断するための材料が深みに嵌ってしまっては見つけることができないからだ。
吾郎は由美との不倫にピリオドを打った。由美の方も吾郎に対して執着がなかったことは幸いだったが、吾郎はまだまだ不安だった。なぜなら、由美が隣の部屋に住む奥さんだったからである。
「玄関先で出会っても、知らん顔ができるんだろうか?」
良枝はさほど勘の鋭い方ではないので、悟られることはないとは思うが、自分で自分の顔が見えない以上、不安を拭い去ることはできない。また、勘が鋭い方ではないというのが良枝なりの気の遣い方で、意外と何でも分かっているかも知れないとも思う。そう思うと気が気ではなかった。
人に対して、しかも妻に対して後ろめたさを感じると、今まで見えてこなかったものまで見えてきているようだ。ただ、それが錯覚ではないかと思うこともあるのだが、少しだけ吾郎の前の視界が変わってくるのを感じていた。
吾郎は、どちらかというと蚊帳の外の部分が多い。由美も自分が蚊帳の外であることを分かっているので、吾郎との関係を深めようと感じたのかも知れない。
夫の茂はお世辞にも頼りになるとは言えない。元々頼りにしているわけではなかったので、それはいいのだが、なるべく自分が何も知らないようにしていた。もし、何かあるのなら茂から言ってくるだろうという思いがあったのだろうか?
元々由美が不倫に走ろうと思っていたのかどうか、吾郎には分からなかった。本当に不倫をするつもりであったのなら、吾郎が離れて行った時、離れていかないように何か行動に出るだろうに、そんな素振りはなかった。
「離れていくのなら、それでもいいわ」
と言わんばかりの行動に、吾郎もあっけにとられていた。
「あれ?」
拍子抜けしたと言う表現がピッタリであろう。
由美は吾郎のことを好きだったというよりも、つまみ食いのつもりだったのか、それとも何か他に目的があったのだろうか?
吾郎は、由美に対して、何かを考えているとしても、その考えを一つだけだとは思えない。何種類か考えてみて、その中のどれが一番その場に適した考えなのかを探ろうとしていた。
由美が吾郎の手に負える相手ではないことは分かっていたつもりだが、離れると決めた時に、さらなる由美の神秘さを思い知らされた吾郎だったのだ。
飯田の四十九日も過ぎると、坂口も茂も良枝も、一区切りついた気分になっていた。一番最後まで飯田のことを気にしていたのは良枝だった。自分のトラウマに深く関わっている男の死という衝撃的なことなので、当然であるが、後の二人も、それぞれ飯田に対して各々の思いを抱いていたのも事実だった。
飯田の墓は、家族の墓地に一緒に埋葬された。すでに忘れられた飯田だったので、墓を訪れるのは、家族以外にはありえないと思われていたが、三か月経ったある日、飯田の家族が墓参りに訪れた時、
「あれ? 誰かがお参りしてくれたのかしら?」